戦国山城を歩く
松永久秀が北の護りとした─鹿背山城 【その2】


奈良と京都を結ぶ国道24号線を奈良より北上、木津川手前で県道に右折してしばらく走ると 正面に見えてくる山が鹿背山城址のある城山だ。奈良線、関西本線、片町線が一堂に会する 木津駅を下車してノンビリ歩くのも、長閑な自然を味わえる格好のトレッキングコースだ。 鹿背山城址の大手は、南西山麓にある西念寺から伸びた山道が該当し、 ほどよく古びた「鹿背山城址」の石碑が目印となっている。西念寺の山門傍らには、 鹿背山城の概略と縄張り図を掲載した案内板も設けられている。
左右を尾根筋で囲まれた大手道を登っていくと、左手に曲輪址らしい平坦地が続き、 当時の水の手だろう池もあらわれる。池の堤防を渡った西尾根には見事な竪堀が落とされ、 東尾根には腰曲輪が見え隠れする、そして突き当たった山腹を見上げた山上に主郭がある。 突き当たりを右に進むと鹿背山城の大手というべき城虎口で、虎口を入ると主郭方面、 二の丸・三の丸方面へと誘導するかのように堀切道が分岐している。

・鹿背山城址イメージ図 (西念寺山門横の案内板より)


登り口から二の丸・三の丸
………


鹿背山城址への道標 ・ 大手登り口 ・ 大手道沿いの曲輪と切岸 ・ 大手沿いの池 ・ 竪堀 ・ 主郭を見る



城虎口 ・ 二の丸への堀切道 ・ 主郭と二の丸を穿つ竪堀 ・ 二の丸切岸と腰曲輪 ・ 二の丸切岸 ・ 二の丸東の竪堀


城虎口を左手に登っていけば主郭の虎口で枡形状を呈し、主郭は東西70メートル、 南北40メートルというもので、西方にと東方に土塁を設けている。 東側の土塁は最近の発掘調査で石積み、多聞櫓の柱穴などが発見され城址ファンの話題をよんだ。 主郭の北尾根、南尾根には段状の腰曲輪が築かれ、北西尾根には大堀切、 南西部には畝状堀切、横堀などが築かれ、西方からの攻撃を意識した十分な備えが実感される。
東方の二の郭は東西70メートル、南北30メートルの広さを有し、 北東部に物見櫓址であろう立派な土壇が築かれている。二の郭と三の郭の間は箱堀状の曲輪で、 北側には登り土塁を伴った二重の堀切が設けられている。



二の丸と三の丸の間の竪堀と登り土塁 ・ 二の丸と三の丸の間の竪堀 ・ 三の丸の城址木碑 ・ 三の丸虎口 ・ 三の丸と南腰曲輪 ・ 三の丸切岸


三の丸北東尾根の堀切 ・ 三の丸東の畝堀 ・ 三の丸南尾根の堀切(箱堀) ・ 二の丸南尾根曲輪 ・ 南尾根曲輪中央の土塁 ・ 城虎口に続く帯曲輪


……………
三の郭は30メートル四方くらいの広さで北側に低い土塁が築かれ、 南尾根に段曲輪、東北直下に堀切、東方に畝堀、武者走り状に細い帯曲輪が捲いている。 見どころは、三の丸南の腰曲輪と南尾根の曲輪を穿つ大堀切で、 曲輪の高い切岸を相俟って見事な光景を作り出している。
鹿背山城址は東西350メートル、南北300メートルの規模で、主郭・二の郭・三の郭を中核として 尾根に築かれた曲輪群、土塁や堀切、竪堀・畝堀など、見るべきところは目白押し状態である。 文字通り戦国山城の醍醐味を十二分に堪能できるところである。
・鹿背山城址縄張図(西念寺山門横の案内板より)

・主郭へ…

[ 松永氏 ]



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