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山名氏
二つ引両
(清和源氏新田氏流)


 山名氏は武家の名門清和源氏の一支流で、新田義重の子義範が上野国多胡郡山名に住し、山名三郎を称したことに始まる。鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてこない。
 山名氏が歴史に登場してくるのは南北朝時代、足利尊氏に属して伯耆守護になった時氏の代からである。時氏は難しい時代を生き抜き、伯耆を含めて因幡・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を兼帯する大勢力に成長した。時氏の死後も山名氏は勢力を拡大し、ついには室町時代の日本全国六十八州のうち六分の一にあたり、山名氏は「六分一殿」とか「六分一家衆」と呼ばれる大守護大名になった。
 山名氏の強大化に対して危惧を抱いた室町三代将軍足利義満は、その勢力の削減を謀るようになった。あたかも、山名氏内部で惣領と庶子家の対立が生じ、それを好機とした義満の策謀によって山名惣領の時熙は没落、代わって氏清・満幸らが山名氏の主流となった。しかし、義満はさらに山名氏の勢力削減を図り、その挑発に乗せられた氏清・満幸らは明徳の乱を起こして没落、山名時熙が惣領に返り咲いたものの但馬・伯耆・因幡三国の守護職を保つばかりとなった。

山名氏の興亡

 因幡守護職は南北朝時代のはじめ石橋和義が任じられ、ついで山名時氏が任じられた。時氏のあとは嫡男の師義、ついで時義・氏之と相伝されたが、氏之は惣領の時熙とともに没落して明徳の乱当時は満幸が因幡守護であった。明徳の乱後、復権した氏之は因幡守護に返り咲き、以後、氏之の系が伯耆守護職を相伝した。
 山名氏は時熙のあとを継いだ持豊(宗全)の代になると、安芸・備後・伊賀の守護職を与えら着実に勢力を回復していった。そして、嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を暗殺する嘉吉の乱が起こると、乱の平定に活躍、その功に対して播磨・美作・備前の守護職が与えられ、一躍かつての勢力に挽回したのであった。
山名宗全の邸址  この間、伯耆守護職は教之が任じられ、着実に領国経営を推進していた。そして、嘉吉の乱後は備前守護を兼任するようになり、小鴨氏を守護代に登用して赤松氏旧臣や備前国衆の掌握につとめるなど領国の経営に努めた。やがて、幕府管領に任じる斯波氏、畠山氏に家督をめぐる内訌が起こり、それに将軍足利義政の継嗣問題が絡まって、世の中はにわかに波乱含みとなってきた。その影響をうけて管領細川政元と幕府重鎮である山名持豊が対立関係となり、応仁元年、細川派の畠山政長を宗全派の畠山義就が攻撃したことで応仁の乱が勃発した。
 山名氏は分国の兵を京に集めたが、教之が守護をつとめる伯耆からは小鴨・南条・進・村上ら、そして備後から和智・山内・宮衆が上洛した。そして、伯耆山名衆は東軍の赤松政則の軍と山名相模守ら一族若党が討死する激戦を展開した。やがて、伯耆の隣国である出雲の守護佐々木氏の守護代尼子清定が伯耆を掠めるようになり、文明四年(1472)、教之は急ぎ伯耆に帰国すると尼子勢の侵攻に対した。そして、出雲との国境付近で戦いを繰り返したが、翌文明五年の正月に病没してしまった。同じ年、山名氏の惣領で西軍の総帥でもある持豊も病没、山名宗家は嫡孫の政豊が家督となった。
 応仁の乱は下剋上の風潮を醸し出し、戦乱は全国に波及し、足利将軍を頂点とした室町幕府体制は大きく動揺をはじめていた。守護大名が京で抗争に明け暮れている一方で、国元では一族や国人領主たちが自立化の動きをみせるようになり、山名氏の領国である但馬・因幡、そして伯耆も反乱が相次ぐようになった。一説によれば、教之の嫡男豊之は領国の反乱を鎮圧するために下国したが、家中の謀反によって謀殺されたともいわれる。ともあれ、教之が病没したのちは孫の政之が伯耆守護職に任じられたようだ。
・写真 : 応仁の乱勃発地−京都上御霊神社の森


応仁の乱、時代は戦国へ

 政之に対して一族の元之を擁した国人領主たちが対抗し、鎮圧に苦しんだ政之は但馬山名政豊の応援を仰ぎ、 元之方の拠る法勝寺城を攻撃した。そして、南条下総入道や赤松氏被官の中村五郎左衛門尉らを討ち取った。 この元之らの反乱の背景には、応仁の乱によって播磨・備前・美作の守護職を回復した赤松政則の暗躍があった。 ともあれ、元之らの反乱を鎮圧した政之は領国の経営に努め、事態の収拾に尽力している。
 赤松政則の暗躍に対して、山名政豊は失った播磨の回復を狙って文明十五年より播磨への侵攻を行なうようになった。 一時、播磨を席捲した政豊であったが、結局は播磨の回復に失敗、かえって領国経営に破綻をきたすようになった。 同じころ、因幡では国人毛利氏が反乱を起こし、伯耆でも南条氏らが不穏な動きを見せていた。延徳元年(1489)、 伯耆では元之の一派が蜂起、政之は南条らを討ち取ってこれを撃退したが、事態は予断を許さないものがあった。 延徳三年、政之は上洛して将軍足利義材の近江征伐に従軍しており、元之の反乱を制したのち伯耆は一応の 平安を取り戻したようだ。
 政之のあと伯耆守護職は弟の尚之が継承し、ついで因幡守護家の豊時、そして大永元年(1521)、には澄之が 守護職にあったことが確認される。十五世紀の末期、西方の隣国出雲は清定のあとを継いだ経久が富田城に拠って 一国を支配下に置くようになり、十六世になると尼子勢力が伯耆にも伸長してきた。そのころ伯耆山名氏は尚之と澄之 が対立関係にあり「国総劇」と呼ばれる内乱状態にあった。山名氏すでに権威を 失墜していて、尾高城主の行松入道、羽衣石城主の南条宗勝らが山名氏を凌駕する勢力を有していた。 そして、経久は山名氏の内訌に乗じて澄之を支援するかたちで伯耆へ進攻、永正十二年(1515)には 澄之とともに大曽祢氏を討ったことが知られる。
 その後も経久の伯耆侵攻は繰り返され、経久を後ろ盾とした澄之が尚之を倒して守護職に就いたようだ。 ところが『因幡民談記』などでは、大永四年(1524)五月、経久が伯耆に攻め込み、尾高城主の行松入道、 羽衣石城主の南条宗勝らをはじめ、北条堤城主の山田氏、岩倉城主の小鴨氏、 そして倉吉打吹城主の山名澄之らは経久の猛攻の前に没落、因幡山名氏、但馬山名氏らを頼って伯耆から遁走していった。 世に「大永の五月崩れ」といわれる動乱で、伯耆一国は尼子氏が支配するところになったという。
 先述のように尼子経久は澄之と結んでおり、澄之に対抗する勢力を次々と打ち倒し大永四年ごろに伯耆一国を 制圧したものが大永崩れと表現されたものであろう。澄之は伯耆の守護であったとしても経久の傀儡であったと思われ、 天文のころ(1530年代)に病没したという。澄之には豊興という男子が 確認されるが、その事績はよく分からない。伯耆守護職に関していえば、天文二十一年(1552)、 尼子晴久が補任されており、天文のはじめごろに伯耆山名氏は没落の運命となっていたようである。
 尼子氏の侵攻によって守護山名氏、国人衆らが没落し、神社仏閣などが焼失して数多の史料が失われた。その結果、 伯耆の戦国時代における史料はまことに乏しく、守護山名氏の動向に関しても明確にするのが困難な状況となっている。

参考資料:鳥取県史・東郷町史・守護/戦国大名事典・日本城郭体系 など】

●但馬山名氏 ●伯耆山名氏 ●因幡山名氏


■参考略系図
・尊卑分脈・群書類従系図部の「山名氏系図」などから作成


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