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細川氏
二つ引両
(清和源氏足利氏流)


 細川氏は足利義康の四代目にあたる義季が、三河国額田郡細川に住んで細川を称したことに始まる。南北朝の動乱期、細川氏一門は足利尊氏に従って活躍、とくに頼春は刑部大輔・侍所頭人となってのちの管領家の基を開き、和氏・師氏の兄弟も阿波守・淡路守となって、それぞれ阿波・淡路の守護となった。
 頼春は文武に秀でた武将で、建武三年春、宮中の射礼に能射の名をあげ、それを賞した後醍醐天皇が御衣を賜ると、即座に和歌を詠んで献上したという挿話が伝わっている。暦応元年(1338)、和泉石津の戦いで北畠顕家を討ち取る功をあげて阿波・備後の守護となり、康永元年(1342)、南朝方伊予守護の大舘氏明を討ち取った。さらに、観応の擾乱が起こると足利尊氏に属して活躍、義詮を助けて京都を守った。そしして正平七年(観応三年=1352)、都へ侵攻してきた南朝軍と戦って七条大宮で戦死した。文字通り、頼春は足利幕府創業の功臣であった。
 頼春のあとを継いだ嫡男頼之は阿波・伊予守護職を兼帯し、延文元年(1356)、尊氏から中国管領に任ぜられ、備中守護にも補任された。頼之は幕府と対立する直冬党と戦い、南朝方に降った細川清氏を討ち取り、南朝方と直冬党を壊滅させることに成功した。その後、中国管領の任を解かれた頼之は、讃岐と土佐の守護職に任ぜられ、これまでの阿波・伊予守護職を併せて四国全土を治め四国管領とよばれた。 一方、備中守護職は高師秀が補任され、ついで宮氏信、渋川義行そして満頼と相伝されたのち、明徳四年(139)、ときの管領細川頼元の弟満之が守護職に任じられた。以後、備中守護職は細川氏が一家相伝するようになったのである。

守護細川氏の興亡

 室町時代、守護は京にあって幕府に出仕することが原則で、国元の経営は守護代・郡代などに任じられた被官がつとめた。備中の守護代は石川氏、庄氏らがつとめたことが知られる。備中守護職は満之のあと頼重・氏久・勝久と相伝され、浅口郡の鴨山城を本拠にしたというが、実際のところは不詳である。一説によれば頼元の子満国が守護職に任じられて鴨山城を築いて守護職を相伝したというが、当時の史料では満之系が守護職を務めたことが確認される。
応仁の乱碑  応仁元年(1467)、京を舞台に応仁の乱が起こると、ときの備中守護細川勝久は宗家で東軍の総帥たる細川勝元を援けて京で奮戦を続けた。一方、国元の備中では守護代の庄元資が安芸の毛利・吉川氏らと結んで隣国備後の西軍勢力と戦い、弟の藤四郎資長が討死している。応仁の乱は下剋上の風潮を醸成し、戦乱の余波は全国に及んで、守護の一族・国人領主たちの自立化を促した。それは備中も例外ではなかった。守護細川氏の留守を守っていた元資は、文明十五年(1483)、備前国で赤松氏の重臣浦上氏と金川城主松田氏が戦ったとき、松田氏を支援して福岡城を攻撃しておりその実力は侮れないものとなっていた。
 かくして、延徳三年(1491)、元資は勝久に叛旗を翻し、守護方との間で合戦が始まったことが『蔭 凉軒目録』みえている。それによれば、守護方は一族・被官ら五百人が討ち取られ、庄四郎次郎は河辺の倉に討ち入ったとある。さらに『史料総覧』でも「備中守護細川勝久の部下、荘元資と備中に戦って敗る」とあり、守護方が大敗北を喫したことが知られる。
 国元の危急を知った勝久はただちに帰国すると、元資の反乱鎮圧にあたった。対する元資は隣国讃岐の有力国人香西氏に加勢を求めて抗戦を続けたが、守護方に備前の浦上勢が援軍として加わったことでついに敗れて勝久に降伏した。その後、勝久が世を去ると、細川氏は守護職という名ばかりの存在となり威令は行なわれなくなった。かくして、守護代荘氏、石川氏、国人領主である三村氏、新見氏、多治見氏らが台頭して備中は群雄割拠する戦国時代へと推移したのである。
・写真 : 上御霊神社鳥居横に立つ「応仁の乱勃発地」の碑


備中守護家の変転

 男子のなかった勝久は阿波細川成之の子之勝を養子に迎えていたが、のちに之勝(のち義春)は実家に帰って阿波守護職に任じたため、後継者を失った備中は元資らの反乱が起こった。その後、義春のあとを継いだ之持が備中守護職も兼帯して元資らの反乱は治まり、之持の死後は満国流の政春が守護職に補任された。
 応仁の乱によって、足利将軍の権威は大きく失墜し幕府体制は大きく揺らいだ。とはいえ、将軍足利義尚、つぎの義材らは近江六角氏を攻めるなどして将軍権力と幕府体制の立て直しに努めたが、明応二年(1493)、細川政元のクーデタによって管領畠山政長は自害、義材は将軍の座から引き降ろされてしまった。このクーデタをもって戦国時代が始まったとする説が一般的である。以後、政元が幕政を牛耳ったが、永正四年(1507)、政元は家臣の謀反によって暗殺されてしまった。
 男子のなかった政元は九条家から澄之、阿波細川家から澄元、そして京兆家庶流の政春の子高国を養子に迎えていた。家中は澄之派と澄元派に分裂して対立、ついに澄之派によって殺害されてしまったのであった。その後、澄元派が澄之を倒し、さらに澄元と高国が対立して澄元派は敗れて阿波に逼塞した。幕府管領となった高国は前将軍義稙(義材)を奉じて幕政の実権を掌握すると、実父政春を備中守護に任じたのであった。しかし、すでに守護職は名ばかりのものであったことはいうまでもないだろう。
 政春が死去したのちは通政が継いだが、すでに世の中は戦国乱世であり、出雲の戦国大名尼子晴久の勢力が備中に伸張してきた。そして、天文二十一年(1552)、晴久が備中守護職に補任されたのであった。その後、毛利氏の勢力が備中に伸びてくると、伊予宇摩郡の川之江城にいた通董が毛利氏の支援を得て失地の回復に乗り出した。
 永禄二年(1559)、伊予から備中に移った通董は青佐山城を築いて備中の経略にあたり、同九年(1566)竜王山城を 新たに築いて鴨山城をうかがった。そして、天正三年(1575)、鴨山城への入城を果たしのである。以後、 鴨山城を中心として青佐山城・竜王山城などを支城として浅口郡を支配下においた。しかし、すでに管領細川氏は 没落しており、通董は毛利氏の先鋒をつとめる部将の一人という存在であった。通董の子元通は浅口少輔九郎を称し、 関が原の合戦ののち毛利氏が防長二州に減封されると毛利秀元に従って長州に移住して子孫は長府藩士として続いた。

参考資料:岡山県史・矢掛町史・日本城郭体系 など】

●細川京兆家 ●阿波細川氏 ●細川幽斎家 ■細川氏概説


■参考略系図
・尊卑分脈・群書類従系図部をベースとして、晴国の系は東大史料編纂所データベースの細川氏系図などから作成。 通董以降は備中守護家とは別流とすべきであろう。


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