但馬守護山名氏の居城址--此隅山城



但馬守護職として但馬に威を振るった山名氏の本城、文中年間(1372〜74)、山名時義により築城されたという。とはいえ、歴史にあらわれるのは応仁の乱を経た戦国時代になってからである。山名氏は、応仁の乱の一方の立役者である持豊(宗全)が有名だが、持豊以後、一族の内訌、家臣団の反抗などによって山名氏は衰退の一途をたどった。戦国時代、織田信長の但馬侵攻が始まると、ときの当主山名祐豊は織田軍に抵抗したが、敗れて此隅山城は落城、祐豊は堺に逃亡した。 その後、但馬に復活した祐豊は新たに有子山城を 築き拠ったため、此隅山城はまったく廃城となった。
●登城口には猪除けの金網・急坂を登る・最初の曲輪・堀切




●曲輪の土塁・竪堀急坂を登る・主郭への道には岩がごろごろしている・急坂が続く




●城址から出石方面を見る・主郭へ・主郭・主郭は意外に広い・主郭の切岸




城址へは出石古代学習館と出石神社側から登れるが、学習館からの道がよく整備されているようだ。此隅山城は標高140メートルの山頂の主郭を中心として、四方にのびる尾根上に削平による曲輪を多数設けた一大山城である。尾根を登っていくと、曲輪・堀切・土塁・竪堀、そして、主郭の全面には切岸が設けられ、石垣などを用いない中世の山城遺構を実感できる。また、山麓には御屋敷、宗鏡寺、願成寺、大手門などの地名が残り、かつて城下町が存在していたことを伝えている。その歴史的価値から、国の指定文化財の史跡指定を受けている。
●曲輪が続く・守護館跡を見下ろす・竪堀・出石神社方面から城址主郭を見る

山名氏