戦国山城を歩く
山名氏、尼子氏との合戦史を刻む─小谷城


小谷城は北条の五百羅漢で知られる加西市北条にあり、地元のひとが城山とよぶ 標高218メートルの山上にあった。伝によれば赤松満祐の弟上原民部大輔祐政が 築いたといわれるが確証はない。
嘉吉元年(1441)満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱が起こると、 小谷城には満祐の弟で龍門寺の禅僧直操が入り但馬の山名氏に備えた。直操は 良・宇野・佐用氏らを率いて生野峠に出陣したが、大山口の戦いに敗れ 直操は敗戦の責を負って自害、小谷城は落城、赤松満祐も城山の戦いに敗れて滅亡した。 嘉吉の乱後、播磨守護職は山名氏が任じられ、その間、小谷城は廃城になったのか 山名氏の支配下にあったのかは一切わからない。応仁の乱で赤松氏が再興すると、 小谷城には赤松一族が入ったようで、戦国時代には赤松祐尚が城主であった。 祐尚は寺社の修築、耕地の整理、市場を開設するなど領内の治世に尽力した 名君であったようだ。しかし、天文十一年(1542)播磨に侵攻してきた尼子氏を 迎え撃ったが敗れて討死した。
小谷城南山麓の陽松寺は、赤松祐尚が菩提寺として建立した寺で、 山門には二つ引両の紋がすえられている。 寺名は祐尚の戒名「陽松寺殿」から名づけられたもので、 寺後方の山腹に祐尚の追善墓が祀られている。 祐尚の墓の近くには、小谷城の戦いで落命した武士たちを供養したものという 五輪塔・一石五輪塔が林立している。その一角には五輪墓塔の残欠が集められており、 小谷城の戦いが激しかったことをいまに伝えている。 祐尚の墓の後方に小谷城に通じる山道があり、 途中の谷筋には曲輪を思わせる平坦地が階段状に築かれている。 山上の小谷城からの展望は木々が邪魔をするものの、 播磨平野を一望できる要害の地にあることが実感できる。

・居館址の一角に祀られる小谷の石仏と小谷城址(左手)



城山を遠望 ・ 陽松寺裏山からの登り道 ・ 南斜面の横堀 ・ 山麓を見る ・ 腰曲輪と切岸


東曲輪と西曲輪を区画する堀切 ・ 段状に続く西曲輪 ・ 西曲輪西端の片堀切 ・ 虎口を見る ・ 虎口から続く横堀


西曲輪から堀切越しに東曲輪を見る ・ 東曲輪北側の帯曲輪 ・ 主郭へ・ 主郭東の腰曲輪 ・ 城域東端の堀切


小谷城址は東寄りの山上に主郭を置き、西方尾根に曲輪群が階段状に築かれた 連郭式の山城である。城址は堀切で東曲輪と西曲輪に区画され、 主郭の南北に帯曲輪が築かれ、城址の南側には横堀がめぐり、その要所に 竪堀が落とされている。そして、東尾根先と西尾根先に堀切が切られ、 城域を画定している。
いま残る城址遺構は祐尚滅亡後に、三木別所氏、あるいは播磨に進攻してきた 羽柴勢によって改修されたものと思われる。おそらく東曲輪が祐尚時代のものと思われ、 土塁と虎口をもった西曲輪がのちに付け加えられたようだ。 小谷城は小ぶりな城だが、横堀、堀切、土塁、虎口、竪堀などなど残存状態は抜群で 見るべきところが多い戦国山城だ。



山麓の居館址 ・ 大手に連なる平坦地 ・ 陽松寺山門の二つ引両紋 ・ 赤松祐尚の追善墓 ・ 伝小谷城兵の墓石群 ・ ヨバリコキ地蔵


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下山ののち南尾根先の山麓を歩いたが、 平時の居館址であったといわれる平地があり、さらに家臣らの館跡、 兵糧・武器を蓄えた倉庫跡と思われる平坦地が連なっている。 その間を縫うようにして山上に伸びる山道が、往時の大手道であったようだ。 また、曲輪群の一角に水のたまらないという空井戸があり、調査によって甲冑の破片が 出土し、かつての抜け穴址であったと考えられている。
加西市は石仏の多いところとして知られ、小谷城址の近くにも オネショに霊験あらたかといわれるヨバリコキ地蔵などの石仏が散在している。 城址南方にある北条の五百羅漢は、祐尚が嘉吉の乱で戦死した将士や領民を 供養するために建立したものだという説もある。小谷城探索と併せて、 加西の石仏めぐりも楽しいかも知れない。

・素朴さと豊かな表情−北条の五百羅漢




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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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