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湯 氏
剣花菱*/花輪違
(宇多源氏佐々木氏族)
*兵庫県の馬場正修さんから情報をいただきました。江戸期の湯家は 津和野藩で客分だったそうです。


 湯氏は宇多源氏佐々木氏の一族である。源頼朝の旗揚げに功のあった義清は隠岐守となり、出雲地方に地盤を築いた。義清の孫頼清が出雲国仁多郡湯村を領し、地名に拠って湯氏を称したのがその始まりといわれる。
 頼清の孫義綱は、富士名判官を称して南朝方に尽くし建武三年京都の合戦において戦死している。その後嫡流は富士名を称したが、富士名信綱の弟政道は湯を称し、その子高忠は尼子持久に属し、以後、代々尼子氏に属した。

乱世を生きる

 永正の頃の泰敏は尼子経久に仕え、その子が湯信濃守惟宗である。
 惟宗は、尼子晴久・義久の二代に仕えた。天文八年八月の毛利元就攻撃に参陣し、永禄元年五月の小笠原応援軍にも加わり、石見出羽表において吉川軍を破る功を立てている。
 尼子義久の代、永禄四年十一月、鰐走城主牛尾久清とともに福屋隆兼に応じて、毛利方の吉川・都治両氏の守る石見福光城を攻撃したが敗走している。
 毛利元就が出雲侵入して白鹿城を攻めると、尼子義久は応援軍を派遣、惟宗はこの軍に加わって出陣した。この合戦は『雲陽軍実記』にその激戦ぶりは「熊谷出羽守散々に討たされ一町斗引退く、隆直下知して追い返し、自ら猛勢にて救い来り揉立々々戦へば、城兵は荒手も戦労れど…(中略)…熊谷の家子九人迄討ち取られ」と城兵の猛反撃振りが記されている。このように白鹿城の尼子軍は奮戦したが富田城からの援軍が敗走、城は落ちた。
 毛利軍は尼子の本城富田城を包囲したが、尼子氏は毛利の総攻撃を撃退、しかし、兵糧が困窮し城内の人心も動揺するに至った。さらに元就の策が功を奏し牛尾・亀井・河本・佐世氏等とともに湯氏は毛利に降った。  惟宗の子が永綱で、このころ、本城を守っていた。その子が新十郎茲矩である。新十郎は、勇将山中鹿介にあこがれて成長し、やがて尼子氏の趨勢をともに担うこととなる。

近世大名へ

 この新十郎が湯姓から亀井の姓へと改められたのも、鹿介との関わりが大きい。当時の亀井家の当主は尼子氏家老職筆頭でもあった能登守秀綱であったが、秀綱には子がなかった。そこで、鹿介(山中家次男)が秀綱の長女と結ばれることで家名を保った。しかし、鹿介は山中の姓を継ぐこととなり、その際、鹿介は妻の妹を養女としてこれを新十郎(茲矩)に嫁がせ、名門亀井氏の名跡を託したのである。
 これ以降、湯改め亀井茲矩は、終止鹿介等と行動をともにし、因幡国などを転戦、主家再興のために尽力した。上月城落城のおりには、羽柴秀吉の陣にあって、鹿介に脱出を進めるが拒絶される。尼子軍は降伏し勝久は自刃、鹿介は囚われ後殺害される。
 茲矩はこの後、秀吉に従い転戦し、功を認められ因幡国鹿野城主となった。関ケ原の戦いより徳川方につき、因幡、伯耆国を平定して三万八千石を安堵される。その後政治的手腕を発揮して領内開発に努めた。 亀井家は嫡子政矩の代に津和野藩へ移り、以後幕末までその家名を維持する。



■参考略系図
 


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