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和智氏
●八 卦*
●藤原秀郷流波多野氏族
*八卦紋の変形と思われ「吉舎町史」に見える。珍しい紋である。
 


 平安時代末期の久寿二年(1155)、波多野氏は源義朝の子義平が叔義賢を討った武蔵国大蔵館の戦いにおける功により武蔵国広沢郷を得て、同地を譲られた波多野実方が広沢を名乗った。実方は源平合戦に源氏方として出陣、備前国藤戸の戦いに活躍、恩賞として備後国三谷郡十二郷の地頭職を獲得した。
 実方は沼の山に城を築き本拠にしたというが、みずからは鎌倉にあって備後国の所領は一族、あるいは代官を派遣して 管理にあたらせていた。『吾妻鏡』の建暦三年(1213)の条に、広沢左衛門尉実高が備後国で蜂起した賊徒を討つため 下向、三年ぶりに鎌倉に帰ったという記事がある。実高は実方の嫡男で三谷郡十二郷の地頭職を相続していたことから、 賊徒鎮圧の使節に任命されたのであった。しかし、実高は鎌倉を本拠としていて任務が終わると鎌倉に帰っており、 いまだ備後国には入部していなかったのである。

広沢氏の備後国入部

 広沢氏が備後国に移住するきっかけとなったのは、承久の乱の功で新たに三谷郡西方を賜り、その支配権が三谷郡全域に及んだことであった。一方、源家将軍が断絶したのち、執権北条氏の力が強大化し、多くの御家人は鎌倉を離れて地方の所領へ下って勢力を維持しようとする動きもあった。
 ともあれ、広沢家惣領家は新たにえた三谷郡西方を実村に与えて現地に移住させ、同時に三谷十二郷の代官に実村を 任じたようだ。かくして、広沢実村が備後国に下向し一族が三谷郡に広まることになる。当時の武士は惣領を 中心とした分割相続制が基本であったため、実村は所領を分割して長男実綱に江田荘を、二男の実成に和知荘を与え、 両者はそれぞれ江田・和智を名乗った。以後、江田・和智両氏は備後の国人領主として戦国時代末期まで 存続するのである。
 鎌倉を本拠とした広沢惣領家は将軍家に出仕して、『吾妻鏡』には実高の子実義が将軍頼経の供奉人として登場している。また、実義は遠く熊野から備後国の和智に旅したことが『とはずがたり』に記され、かれの孫宗実は北条得宗家の被官になっていたようだ。その後、建武新政下において広沢高実の名があらわれるが、以後、関東の広沢惣領家の動向は知られなくなる。まことに家を存続することは困難なことと思わざるをえない。
 ところで、『とはずがたり』は久我大納言の娘で後深草院に後宮として仕えた「二条」という女性の書き残した 旅日記である。三十歳で出家した二条は関東を遍歴したのち、四十代のなかばに西国への旅に出立した。そして、 厳島詣でのおり和知庄の女性と知り合い和知を訪れ、和智氏の館に逗留することになった。そこで見た和智氏の 暮らしぶりは「毎日、領内の名もなき男女を無理矢理館に連れてきて折檻する」「鷹狩りといって鳥や猪を多く殺す」と いった殺伐としたものであった。ある日館が騒がしいので何事かと思うと、関東から和智氏の惣領広沢与三入道が 紀伊国熊野詣のついでに分家の様子を見に和知に来るというので、主の和智実成は家中総出で入道の接待に 備えようとしていたのであった。与三入道は一族の長であり、和知庄地頭職もかれが掌握していたため、 実成にとっては粗相のあってはならない一大事であった。 二条の遺した「とはずがたり」は鎌倉時代における惣領制と武士の生活を知る格好の史料となっている。
やがて、元寇をきっかけに幕府政治は行き詰まりを見せるようになり、加えて執権北条氏の失政、 惣領制による分割相続の破綻などが相俟って鎌倉幕府体制は大きく揺らぎだすことになる。

南北朝の動乱

 十四世紀、後醍醐天皇の倒幕運動によって、時代は動乱期を迎える。元弘の変の失敗により隠岐に流されていた後醍醐天皇が、伯耆国船上山に遷幸されると、中国地方の諸武士が馳せ参じた。備後国からは広沢・江田氏らが三吉・宮氏らとともに参じた。京都では六波羅探題が足利尊氏に落とされ、東国では鎌倉が新田義貞に落とされて北条一族は自刃して滅亡した。かくして、元弘三年(1333)、鎌倉幕府は倒れ、天皇親政による建武の新政が発足した。
 しかし、建武の新政は時代錯誤な施策が多く、とくに恩賞沙汰は手柄のない公家や寺社が優先されるといった 不公平なものであった。新政に反感を抱いた武士たちは足利尊氏に望みを託すようになり、建武二年(1335)、足利尊氏が 反旗を翻したことで新政は崩壊した。広沢一族は尊氏に属し、和智実成の五男資実は度々の忠節によって江田氏領を除いた 三谷郡全域を賜った。そして、一族を三谷郡の要所に配し、本拠地を和知から西条(吉舎)に移すなどして支配体制を 築き上げた。このような歴史があって、和智氏では吉舎に本拠を置いた資実をもって初代に数えている。
 三谷郡のほぼ全域を手中に収め本拠を固めた和智資実は、近隣の寺社領への侵略を繰り返し、隣接する地毘荘の 山内氏領を押領する始末であった。これに対して幕府は、備後守護仁木氏に資実の押領を停止するように命じている。 それがあってか暦応三年(1340)、足利尊氏は和智氏が本拠とした西条の地を取り上げて天竜寺の造営料に 充てようとした。資実はその打ち渡しを拒否したばかりでなく、南朝方と結び平松城に拠ってこれに抵抗し、 遠く瀬戸内海方面にまで進出するようになった。
 資実のあとを継いだ師実も南朝方として行動、二代将軍義詮からも西条の打ち渡しを命じられたが拒否、長井・山内氏らが平松城に攻め寄せたが防戦につとめて撤退させている。その後、要害の地を選んで南天山城を築き、幕府への抵抗姿勢を崩さなかった。やがて、三谷西条の地をあきらめた義詮は、世羅郡の重永桑原方六郷を代地として天竜寺領とした。そして、打ち渡しを妨害する矢野・太田らの鎮圧を山内氏と和智師実に命じている。ここに和智氏は幕府方に転じ、武士にとって文字通り「一所懸命」の本領を実力で守りきったのであった。その後も近郷に侵略の手を伸ばして支配圏を広げ、備後国の有力国衆へと成長していくのである。

応仁の乱

 南北朝の合一がなったのち室町幕府体制は着実に強化されたが、明徳の乱・応永の乱が続き、関東でも上杉禅秀の乱・永享の乱など争乱が打ち続いた。室町幕府は大守護の連合体制という一面を有し、足利将軍の権力は必ずしも磐石なものではなかった。
 足利将軍七代の義教は将軍権力の確立を目指して、大守護大名の勢力削減を図って内政に介入するなど 恐怖政治を行なったが、嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐によって暗殺されてしまった。 以後、幕府体制は衰退の一途をたどるようになり、将軍権力も有名無実化していった。やがて、幕府管領斯波氏、畠山氏が家督をめぐる内訌を起こし、それに将軍義政の後継問題が加わり、事態は管領細川勝元と幕府実力者山名持豊(宗全)の対立を引き起こした。
 そして、応仁元年(1467)、京を舞台に応仁の乱が起こった。備後国守護山名是豊は山名宗全の子でありながら東軍の細川勝元に味方したため、国内の国人衆らは東西両軍に分かれて対立した。備北の和智・江田・三吉・山内氏らは西軍、備南の杉原・宮氏らは東軍に属した。そして、和智・山内氏らは山名宗全の命を受けて出陣、遠く丹波に攻め入ると夜久野合戦で細川勢を打ち破り京に攻め上っている。
 その後、備後を舞台に戦いが展開されるようになると、西軍は山内氏が中心となって戦いを有利に進めていった。乱が終わると備後守護は宗全のあとを継いだ政豊が任じられたが、今度は政豊と子の俊豊が対立するようになり、ふたたび国人衆は両派に分裂した。この争乱において和智氏は政豊に属し、俊豊に属する毛利氏の攻撃を受けている。
 山名氏は親子の抗争によって衰退の色を見せるようになり、国人領主たちはみずからの生き残りをかけて独自の行動をするようになった。備後守護山名氏、安芸守護武田氏らが非力化するなかで周防の大内氏が勢力を拡大、さらに出雲からは新興勢力尼子氏が起こり、備後国は尼子氏、大内氏らの軍勢の侵攻に翻弄されるようになる。文字通り世の中は下剋上が横行する戦国乱世へと推移していた。

乱世に翻弄される


 和智氏は大内氏に属して尼子氏に対峙したが、大永三年(1523)、毛利元就らを従えた尼子経久が安芸に進攻、 大内方の拠点鏡山城を攻略、安芸国人衆は尼子氏の傘下に降った。ついで南天山城が尼子勢の攻撃にさらされ、 城主和智豊郷は尼子氏に屈服した。ところが、ほどなく毛利元就が尼子方から大内方に転じ、翌四年から大内氏の尼子方への反撃が開始された。
 大永七年の夏、陶晴賢と毛利元就の率いる大内軍と出雲から南下してきた尼子軍とが和知郷細沢山で激突した。戦いは七月から始まって、十一月には三吉郷へと広がる大合戦となった。この大内方と尼子方の戦いに際して、和智豊広ははじめ尼子方についていたが、長引く合戦のなかで去就に迷ったようで、九月大内方の山内氏の工作を受けて大内方に寝返っている。
 豊広は大内方に転じたものの尼子氏に味方していたことを責められ、みずからは隠居して一族の上原和智氏から 豊郷を養子に迎えて家督を譲った。豊広には実子元朝があったが排除され、大内氏に都合のよい和智氏体制へと 変化したのである。以後、和智豊郷は大内・毛利方として行動、享禄二年(1529)、毛利元就が高橋氏を攻めたとき 豊郷は毛利方として出陣している。さらに、豊郷の跡を継いだ誠春は毛利一族で重臣の福原広俊の娘を室とした。 加えて、誠春の子元郷は大内家の重臣内藤興盛の娘を妻としたが、妻の姉は毛利元就の嫡男隆元の妻で、元郷と隆元は相婿の関係であった。
 高橋氏を討った元就は、宍戸氏、熊谷氏らとの友好関係を強化し、和智氏らの国人衆をまとめてその盟主となり、尼子方の三吉氏、多賀山氏らを降して着実に勢力を拡大していた。元就の勢力伸張をみていた尼子氏は天文九年(1540)、元就の本拠安芸郡山城攻めの陣を起こした。大内氏の援軍を受けた元就は尼子氏を迎撃、ついには大損害を与えて尼子軍を撃退したのである。尼子の敗戦をみた大内義隆は、出雲に侵攻して富田月山城を攻めたが、国人領主たちの寝返りもあって敗戦、命からがら帰国した。この間、和智氏の動向は知られないが、他の国人領主らと同様に尼子氏と大内氏の間を揺れていたものであろう。

毛利元就の出頭

 尼子攻めに失敗した大内義隆の声望は翳りをみせ、次第に政務を厭うようになっていった。一方、尼子攻めにおいても巧みな撤退をみせた毛利元就の声望はいやがうえにも高まっていた。そして、天文二十二年、大内氏の重臣陶晴賢が謀反を起こして義隆を殺害した。義隆の死後、尼子晴久は安芸・備後への進攻を目論み、山内隆通、江田隆連らを味方に付けると三谷郡へと南下した。迎え撃つ元就は和智誠春の拠る吉舎南天山城に入り、吉舎城下には毛利方の部将が陣を布いた。
 尼子氏に属した江田氏と毛利軍との間で激戦が行なわれ、毛利の援軍として出陣してきた内藤興盛らが尼子勢に睨みを利かして対峙した。その後、毛利方が江田方の高杉城を攻略、さらに江田氏の本居旗返城に攻め寄せた。やがて、旗返城内の尼子勢が脱出を図ると、江田隆連も山内氏のもとへ奔り、広沢一族江田氏は滅亡した。
 尼子氏の撃退に成功した元就は、陶晴賢に江田氏旧領を貰い受けたいと申し入れたが、元就の勢力が大きくなることを嫌った晴賢はそれを許さなかった。却って、旗返城に腹心の江良房栄を入れて元就に睨みを聞かせる始末であった。これもあって、元就は陶晴賢に叛旗を翻すと、江良房栄をおって江田氏領を手中に収めた。さらに山内氏を配下に従えて尼子氏に対する備えを固めると、陶晴賢との決戦へと謀略を積み重ねていった。
 弘治元年(1555)、陶晴賢を厳島におびき出した元就は、奇襲戦をもって晴賢を討ち取り、つづいて弘治三年には 大内義長も滅ぼして周防・長門を版図におさめた。かくして、毛利元就は安芸・備後・石見・周防・長門を治める 大大名へと飛躍したのであった。
 ところで、弘治三年に備後の国人領主たちが毛利元就に忠誠を誓う文書を出している。 いわゆる傘連判状とよばれるもので、元就・隆元を含めて十八人の領主たちが署名を連ねているが、 和智一族は誠春をはじめ上原豊将・柚谷元家・新見元致ら四人の名があり、和智氏の力は大きなものがあったのである。
………
右図:毛利元就が弘治三年に安芸国衆と契約した傘連判状


和智氏の不運とその後

 永禄六年(1563)、誠春は出雲遠征に赴く途中の毛利元就の嫡男隆元を響応した。先述のように隆元と誠春の嫡男元郷とは妻を通じた義兄弟であり、誠春らはおおいに歓待した。
 ところが、宿所に帰った直後に隆元は腹痛を訴え、手当ての甲斐もなく急死してしまった。享年四十一歳、そのあまりにも急な死に対して、誠春が毒を盛ったのではないかと疑われた。しかし、誠春ら和智氏にとって隆元を殺す理由もなく、また、隆元の軍勢が宿営しているなかで毒殺するなど自殺行為に等しいものというしかない。
 ともあれ、誠春らには処分もなく、それから六年後の永禄十一年、和智誠春・元家の兄弟は 吉川元春・小早川隆景に従って伊予に出陣した。その帰路、高浜海上の興居島で軍勢を休めているとき、 元就からの使者が吉川元春・小早川隆景に「誠春・元家を切腹させよ」という命令を伝えてきた。 元春と隆景は陣中で両名を殺せば他の国衆が動揺するとして、ひとまず両名を厳島に連行して厳島に監禁した。 身の危険を感じた二人は、番衆のすきをねらって脱出すると厳島神社本殿へ枯れ草をもって閉じ篭り、 攻めれば神殿を焼き払うと抵抗したが、熊谷就政・児玉元村によって誅殺された。
 これは、隆元の死への報復とされているが、それとするならば、和智氏が六年間も放っておかれたのは何故だろうか。 永禄十一年、元就はすでに七十一歳の老齢であり、二年前には危篤状態になるほどの重病を患っていた。しかも、 後継者である輝元はまだ十五歳であった。中国地方の覇者となった元就にとって、国衆・外様衆との間にどのようにして 主従関係を樹立するかは、このころ最大の課題であった。鎌倉時代以来の関東御家人の家筋を誇る和智氏の誅殺は、 主従関係を樹立するためにとられた、他の武将への見せしめの犠牲とみられる。
 その後和智兄弟は、怨霊となって諸人を悩ましたため、島民は社壇を建立して神に祀ったと伝えられる。なお、 誠春の嫡子元郷は、毛利元就に忠誠を誓う起請文を提出し誅伐を逃れ、藤原城主小川氏のもとに閉居した。その後、 藤原城主となり、元盛のとき毛利氏の防長移封に従った。 かくして、広沢和智氏の中世は幕を閉じ、子孫は毛利藩士として続いた。 ・2011年02月10日

参考資料:広島県史・吉舎町史・三次市史・三良坂町誌・三次の歴史 など】


■参考略系図


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