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豊永氏
三階菱
(清和源氏小笠原氏流)


 小笠原氏は、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したのに始まるという。長清は父とともに源頼朝に従って戦功を挙げ、『吾妻鏡』にも小笠原長清・長経父子の活躍のことがみえている。  承久の乱にあたっては、武田氏とならんで幕府軍の中山道の大将にもなっている。そして、「承久の乱」に小笠原長清は数々の戦功を立て、それによって信濃守に任じられ、紀伊・阿波・河内三国の守護となった。長清の子長経は阿波守護となって、阿波に下向し大西郷に住したが、のちに弟長房に守護職を譲って信濃に帰っている。そして、長経の後裔からは、阿波小笠原氏をはじめ、三好氏、安宅氏・大西氏・豊永氏などが出て、それぞれ四国の国人領主として戦国時代に至った。

国人領主に成長する

  南北朝の内乱期の建武元年(1334)、阿波守護は小笠原氏に替わって足利一族である細川氏が任命された。しかし、小笠原氏はその後も阿波に残っている。その後、足利尊氏ら北朝方と後醍醐天皇ら南朝方とに分かれて天下が争う南北朝時代には、嫡流信濃小笠原氏は北朝に、阿波小笠原氏は南朝につき、小笠原一族は敵味方に分かれた。
 豊永氏の祖となる小笠原頼忠も南朝方として征西将軍懐良親王を奉じて九州で菊地氏と共に戦った。阿波の小笠原氏は守護職を細川氏に交代した後は姓を小笠原から三好、大西などそれぞれが拠った領地の地名に改め、一族は多くの家に分かれてそれぞれ阿波の土豪となっていった。
 明徳三年(1392)、将軍足利義満によって南北朝の合一が成ると、小笠原頼忠は九州より帰国し一時土佐粟生城に居を構えた。そして、阿波国境の豪族有瀬右京進成重と戦ったことが知られ、この戦いが行われた付近で土佐、阿波の国境が確定したと言われている。
 その後、頼忠は阿波西部の大西城を相続し粟生城を離れた。粟生城は嫡子道資が相続し、この道資が初めて豊永氏を称したといわれる。しかし、道資はその後讃岐の戦で討ち死し、粟生城は弟資宣が相続、城名を豊永城と改め、以後、土佐豊永氏として続いていくことになる。
 かくして、土佐、阿波の国境に位置する山間部の国人領主として成長した豊永氏は、、阿波の同族三好・大西との関係、山間部であると言う地理的条件から土佐七人衆の一に数えられた。そして、周辺の有力国人衆の本山、山田、長宗我部氏と誼を通じながら独立性を維持していったようだ。中でも山田氏とは親密な関係を保っていたことが、山田氏が通字としていた「道」の字を持つ諱を名乗る豊永氏が多い事からうかがわれる。  以後、資貞の流れが小笠原宗家として小笠原氏を名乗り、庶子は豊永姓に改めさせて宗家の家臣とし、家中の統制を図っていったようだ。

戦国時代の豊永氏

 戦国期にはいると、本山氏の土佐平野部進出による強大化により本山氏への依存度を大きくしていった。この時代、土佐中部地域の盟主は本山氏であり、豊永氏をはじめ、のちに四国統一の軍を起こすまでに至る長宗我部氏ですら本山氏に属していた。このような状況下、豊永氏は南北朝期、宮方、武家方として戦った長宗我部氏との和睦を図り、両家の間には姻戚関係が結ばれた。
 その後、戦国乱世のなかで山田氏が滅亡、長宗我部氏と本山氏とが対立するようになった。長宗我部氏の攻勢によって本山氏が瓜生野城へ撤退すると、本宗家はこれに同調し籠城戦に参加したようだ。結果は、本山氏が敗北。小笠原氏を名乗っていた豊永氏宗家道実は、永禄四年(1561ごろ)、長宗我部氏の豊永地方侵攻において没落した。道実に代わって弟中務丞実吉が惣領となり、以後、長宗我部氏の家来として豊永小笠原氏は存続することになった。
 豊永氏の領地への長宗我部の侵攻は、史科がなくその詳細は不明である。また、惣領道実の跡をなぜ三男が継いだのかといった疑問も残るが、次男内蔵介茂政は惣領とともにも没落したものと考えられる。この茂政は後に貞資と改名し、長宗我部政権下で豊永地方の領主となったと伝えられるが、その子孫の動向は不明となっている。名乗りに「茂」の字を冠している事から、茂政の烏帽子親は本山氏だったと考えられる。そのようなことから、茂政は本山氏に近い人物だったと想像され、本山氏滅亡後、進退に窮し結局没落したものであろう。
 その後小笠原は、中務丞実吉の子権進道春が相続し、名字を豊永と改めた。この時点で鎌倉以来の国人領主であった豊永小笠原氏は消滅したといえよう。

豊永氏─余聞

 長宗我部検地帳などに見える豊永氏は約四十人を数えるが、長宗我部家に降ってからの豊永氏の活動は、以前にもまして精彩がみられない。とはいえ、長宗我部氏の四国統一の軍に参加したようで、讃岐藤ノ目城合戦、阿波中富川合戦等に出陣したようだ。また、奈半利、中村等、長宗我部氏が新たに獲得した土地に出向させられた豊永氏も多かったようだ。
 豊永氏の中で一番活躍した人物は、長元記にも出て来る中務丞実吉といえそうだ。実吉は、長宗我部氏の阿波白地攻略において土佐軍の道案内や、敵の大西氏の諜略等に活躍した。また、宗家とは別に長宗我部氏に早くから属した豊永氏から、藤五郎勝元という人物が出ている勝元は長宗我部家中でも一門衆として力を持ち、奉行として活躍していたことが知られている。
 その後、関ヶ原の合戦において西軍に属した長宗我部氏が没落すると、改めて他家に仕えるということはなく帰農したという。

●このページは豊永城さんの情報を参考にさせていただきました。深謝!


■参考略系図


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