多胡氏
組み合い一文字に六つ星*
(大江氏流)
仮に付けた名称。大江氏の代表紋は
一文字に三つ星として有名なもので
一文字に三つ星を組み合わせたもの
とも想像される。正しい呼称をご存
じの方ご連絡をください。

    
 多胡氏は、大江氏の後裔といわれる。上野国多胡に住んで多胡氏を称するようになった。文永年中に出雲郷地頭となって下向したことが出雲多胡氏の発祥と伝えられる。一方、もともと京極氏の被官であり、 越前守俊英が応仁の乱の功によって石見国中野の地を与えられて以降、余勢城主となる。 その後、尼子氏の旗下に入って奉行人となった、とする説もある。
 永正五年(1508)多胡忠重は、尼子経久が願主となって出雲大社の造営に着手したとき、普請奉行となって工事にあたった。この工事は大工事であったようで、着工後十二年を経過した永正十六年三月にいたって上棟式を行ったことが知られる。
 多胡氏で最も有名なのが、辰敬で、尼子晴久に仕えて天文九年の毛利元就の居城郡山城攻めに従軍した。同十二年には、鰐淵寺造営に就いて僧中が評定の上に造営の事僧中が無断に離山すること、山林の伐採を禁ずるとの晴久の掟を命じ、さらに、鰐淵寺領の掟を定め、寺領の陣夫、寺領百姓は下地を他所の人に売らない、寺領の百姓は武家奉公を禁ずる等の晴久の命を伝えている。この後、石見銀山の防衛拠点でもあった刺賀岩山城主に任ぜられた。
 天文二十三年元日、富田城内で連歌師宗養を招いて尼子主従が連歌会を催したときに、辰敬は「ゆくと来と契や花に深見草」を詠じたことが「多胡文書」に伝わる。  永禄元年五月、尼子晴久は毛利元就の包囲を受けた石見温湯城の小笠原長雄を援助するために大軍を派遣した。この軍に辰敬も参陣した。しかし、この援軍は成功せず、温湯城は毛利氏の攻撃によって長雄は降伏し、毛利家臣となった。
 晴久に仕えて軍事、政治につとめた辰敬は学問、弓馬、算術など諸芸十七箇条からなる「多胡家家訓」を記したことも有名であり、 彼自身その実践者として自らを厳しく律し続けた人物でもある。「多胡家家訓」は、手習学問以下容儀まで十七ケ条からなり、「人の用にたつ」ひとになれ、という実用主義で貫かれたものである。
 このように辰敬は教養豊かな武将であり、主君尼子氏の西の木戸柱として刺賀(石見国)に居城し、永禄五年毛利元就の攻囲を受け、奮戦したがかなわず城と運命をともにして果てた。
 辰敬には一男一女があり、娘は湯永綱に嫁ぎ、新十郎を生んだ。新十郎はのちに亀井氏の亀井を継いで、のちに、津和野藩亀井氏の祖となった人物である。一方、多胡氏は重盛が継ぎ、亀井氏に仕え家老職を務めた。しかし、寛永十二年(1635)信濃守勘解由のときに、重臣官の反目騒動が起こり、一方の立役者であった勘解由は罪を得て絶家となった。
 ところが、亀井家中にもう一家多胡家があった。こちらは、永綱の娘で辰敬の孫となり新十郎の姉が小原豊前守に嫁いで生んだ真清が多胡氏を称したことに始まる。さきの重臣間の騒動に際して、真清が執政としてことにあたり、騒動鎮定後家臣檀を再編し、亀井家中の刷新を図った。そして、真清は検地の施行をみた。その跡は、真益・真武・真蔭の兄弟が相継いで、津和野藩政確立に尽力し、耕地の拡張、産業の開発に努めた。以後、真蔭の子孫が多胡家を継ぎ、亀井家の家老として明治維新に至った。

■参考略系図
「尼子一門のルーツ」に掲載されていた系図をもとにして、亀井氏との関係も含めて再構成、辰敬の父に関しては異説がある。