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仁保氏(平子→仁保→三浦氏)
●丸に三つ引両
●桓武平氏三浦氏族
・伝えられた肖像画や武具を見ると、「三つ引両」、「藤に三つ引」などの紋が確認できる。
 


 相模国の豪族三浦氏の支族。はじめ武蔵国在名に拠り、平子氏を称した。「平子系図」によると、 三浦平大夫為通の子次長が久良三郎を称し、また、叔父景通は平子民部大輔を号したという。 また、「武蔵七党系図」には、横山時広の子に広長があり平子野内と注記がある。さらに、為継の弟に 通継をあげる系図もあり、その子木工助重経の子重資が平子を称している。
 平子重経は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参加して活躍、のちの論功行賞において周防国吉敷郡内仁保・深野・長野・吉田・恒富の地を賜ったという。そして、建久八年(1197)、仁保荘・恒富保の地頭職に任じられた重経は仁保荘に下向、以後、重経の子孫が仁保荘の地頭職を相伝した。当時、仁保荘・恒富保周辺は、周防国衙の在庁官人大内氏の勢力が強く、所領支配には相当の苦労があったようで、それが重経の仁保荘への入部につながったようだ。
 仁保荘に入った重経は鶴岡八幡宮を勧請し、菩提寺として源久寺を建立して、仁保荘定着の決意を示すとともに、平子一族の精神的支柱とした。その後、出家した重経は西仁と名乗り、仁保荘地頭職を三男重資に、恒富保地頭職を四男重継に、そして、荘内深野地頭職を長男重直の子重綱に譲渡した。いわゆる、惣領制による分割相続を行ったことが知られる。こうして、所領各地に平子一族が割拠し、在地支配を強化していったのである。
・写真:木造平子重経(沙弥西仁)坐像/山口県の文化財-文化財年表より】

南北朝の争乱

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐を計画したものの破れて、隠岐国に流された。その後、同三年に至って、天皇は隠岐を脱出し伯耆国船上山に拠って、諸国の武士に綸旨を発した。これに対して長門探題北条時直は、長門の豪族に出陣をうながし、みずから伊予に進攻して勤王軍と戦ったが敗れて長門に逃れ帰った。
 一方、後醍醐天皇の綸旨に応じた石見の高津長幸らが長門に進撃し、探題北条軍と戦い、敗れた時直は九州に逃れた。かくして、後醍醐天皇は京都に遷幸ということになり、「建武の新政」が発足した。平子氏は幕府方に属していたようで、重嗣は新政のはじめ所領を収公されたが、のちに尊氏に従って活躍したことで、仁保庄地頭職ほか旧領安堵の勅裁を賜った。
 建武の新政は、何の手柄もない公卿や寺社が恩賞にあずかるなど、恩賞の沙汰や訴訟における不手際や依怙贔屓が目立ち、倒幕の原動力となった武士から次第に見放されていった。建武二年(1334)、北条高時の遺児時行が信濃で兵を挙げ、たちまち鎌倉を攻め落とした。中先代の乱とよばれる争乱で、足利尊氏は後醍醐天皇の勅許を得ないまま関東に下り、時行軍を撃破して鎌倉を回復した。ところが、尊氏は天皇の召還命令を無視して鎌倉に居座り、ついには叛旗を翻して新政は崩壊した。
 天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を送ったが、尊氏軍に敗れ、京都は尊氏によって制圧された。しかし、北畠顕家軍の上洛によって敗れた尊氏は九州に逃れ、再起すると九州の武家方諸将を率いて海陸から京都を目指した。このとき、周防守護大内長弘、長門守護厚東武実らは尊氏に味方し、平子重嗣も尊氏に味方し、尊氏の東上軍に参加した。
 延元二年(1337)重嗣は尊氏方の大将山名時氏に従って、京都三条大宮で戦い、ついで、同じく三条大宮で軍忠を尽くした。さらに、阿弥陀峯の戦いで右足に負傷しながら敵軍と戦い、多々須川原の合戦では家来に負傷者を出すなど京都における戦いで活躍している。その後も重嗣は尊氏方に味方して、各地の戦いに参じて活躍し、貞和二年(1346)、長門国三隅荘六分の一地頭職を宛行われた。
 南北朝の争乱は六十年にわたって続いたが、平子氏は一貫して武家方として行動した。康暦二年(1380)、貞重は大内義弘から阿武郡高佐の地頭職を預けられ、大内義弘の注進によって将軍足利義満から御教書を賜っている。つぎの重房は、仁保庄ならびに多々良庄の地頭職を譲られたが、「明徳の乱」における京都内野の戦いにおいて傷を負った。明徳の乱は山名氏が義満に叛したもので、重房は幕府方として出陣した大内義弘に従い負傷したもので、この傷がもとで死去してしまった。享年二十一歳の若さであった。早世した重房には子がなかったため、弟の重頼が家督を継いだ。そして、この重頼の代に平子氏から在名である仁保を称するようになった。

乱世のなかを生きる

 平子仁保氏は、鎌倉以来の地頭職を相伝し、その安堵は足利将軍から受けていた。ところが、室町時代の盛郷のころより、将軍家の安堵ではなく、大内氏から安堵を受けるようになっている。このことは、大内に属して行動していた仁保氏であったが、ついには、大内氏に従属するようになったことを示している。そして、盛郷の子弘有は、大内教弘から一字を賜って元服したものである。
 大内氏に従属した仁保盛郷の女の一人は、大内氏の筆頭重臣である陶弘房の室となって弘護・弘詮をもうけた。もう一人の女も同じく大内氏重臣である杉重道の室となるなど、大内氏との関係強化につとめている。
 弘有の代に「応仁の乱」が勃発した。大内政弘は西軍に加担して上洛、京都周辺の戦いに明け暮れた。この政弘の陣に仁保弘有も従軍し、応仁二年、摂津の戦いに大勝したが、その後の相国寺の戦いで義兄にあたる陶弘房が戦死した。弘有の姉で弘房室はその菩提を弔うため、安養寺を建立した。その後、弘房の二十五回忌に一宇を建立し瑠璃光寺と名付けた。瑠璃光寺はのちに山口に移され、現在、国宝の美しい五重塔で知られている。
 文明二年(1470)、弘有は嫡子護郷に家督を譲って隠居したようで、以後、護郷の活動が知られるようになる。延徳三年(1491)、将軍足利義材(義尹・義稙)が近江六角氏攻めの陣を起こすと、大内政弘はこれに従軍した。ついで、明応二年(1493)には政弘の嫡子義興が河内畠山氏を討伐した。護郷はこれらの陣に加わり、京都・近江・河内を転戦し、義興から感状を受けている。
 このころになると、九州地方では少弐氏が肥前の松浦氏、有馬氏らを支配下において勢力を拡大していた。少弐氏は九州探題と不和であったため、幕府は探題を支援するため大内氏に九州出陣を命じた。大内軍はただちに九州に出陣、少弐氏は肥前千葉氏の居城晴気城に入って大内氏に対抗した。護郷もこの陣に加わり、晴気城攻略に活躍し義興から感状を得た。翌年には、少弐氏の残党掃討に活躍、義興の命によって九州探題の居城である肥前綾部城に在城した。そして、文亀元年(1501)、大友氏と結んだ少弐氏が豊前国に侵攻、護郷は救援に向かい豊前沓尾崎の戦いにおいて戦死した。

仁保氏の戦国時代

 戦国時代初期における仁保氏の所領は鎌倉期以来の本領のほか、周防国楊井領家、長門国紫福郷を加え、さらに筑前国国分寺領・麦野清水村、豊前国吉田領家など九州にまで広がり、大内家中の大身に成長していた。そして、護郷の子興棟・興貞兄弟、興棟の子興奉らはいずれも名乗りに「興」の字があり、これは大内義興の偏諱を受けたもので、当時の大内氏家中における仁保氏の勢力のほどがうかがわれる。
 さて、応仁の乱後、幕府内では権力闘争が深刻になり、明応二年(1493)には将軍義材が管領細川政元に追放され、大内義興をたよって周防に逃れてきた。永正四年(1507)になると、今度は管領細川政元が暗殺されるというように、政局は混迷をきわめていた。政元の死を知った義興は義材を奉じて上洛軍を起し、翌永正五年、京都にはいり義材を将軍職に復活させた。仁保興棟も上洛軍に加わり、義興の護衛に任じた。
 大内義興が京都で将軍義稙を補佐している隙を狙って、出雲の尼子氏が勢力拡大を目論み、反大内行動を見せるようになった。さらに、義興とともに京にあった厳島神主が死去し、その後継をめぐって内紛が起こり、これに安芸武田氏が乗じるという事態になった。永正十五年、義興は分国の争乱をおさめるため、ついに京都をあとにして帰国した。
 翌永正十六年、興棟は死去し興奉が家督を継承し、興奉は義興の尼子征伐に加わり出陣した。このころ毛利氏は尼子方に属しており、興奉は尼子軍の先鋒をつとめる毛利元就と戦った。大永七年(1527)、大内氏の重臣陶興房が尼子経久と戦ったとき、興奉はこれに加わり奮戦、多大な犠牲をはらっている。
 尼子氏と大内氏の抗争は繰り返され、天文十一年(1542)、大内義隆みずからが尼子攻めに遠征したが、戦いは大内方の敗北となった。この敗戦をきっかけとして義隆は文弱に耽るようになり、ついに天文二十年、陶隆房(晴賢)の謀叛によって大内義隆は自害した。隆房は大友氏から晴英を迎え、晴英は義長と名乗って大内氏の家督となった。
 毛利元就もはじめは陶氏に従っていたが、次第に自立するようになり、ついに「厳島の合戦(1555)」で陶氏をたおすと、弘治三年(1557)には、大内義長の討伐に着手した。このとき、仁保隆在は義長に従っていたようだが、一族の仁保隆慰らの活躍で、義長滅亡後、仁保隆在は毛利氏に降って命脈を保つことができた。

そして近世へ

 毛利元就から所領安堵を受けた隆在は永禄九年に死去、隆在は男子がなかったため女子に吉川元春の二男少輔三郎を迎えて仁保氏を立てた。仁保氏を継いだ少輔三郎は元就から元の字を与えられて元棟と名乗ったが、のちに元氏と改めている。
 元亀二年(1571)、毛利氏に滅ぼされた尼子旧臣らが尼子勝久を奉じて、出雲に出陣してきた。毛利氏は小早川隆景と吉川元春を大将に、尼子討伐軍を発した。このなかに元氏も従軍し、初陣の功をあげたと伝えられている。
 元氏には五人の男子があり、嫡男の元景は輝元、秀就に仕え仁保から毛利に改め、子孫は阿川毛利氏として続いた。他の男子もすべて分家させ、仁保氏には輝元の寵臣神田惣四郎を養嗣子に迎え、女を配して家を継がせた。
 惣四郎は元忠と名乗り毛利輝元の信頼を受け、天正十四年(1586)に豊臣秀吉の島津征伐、文禄元年(1592)の朝鮮出兵に出陣した。慶長元年(1596)、上洛した輝元に従って元忠も伏見に上ったがその地で病をえて、帰国する途中に死去した。仁保氏は元忠の代に三浦姓に復し、江戸時代を通じて萩藩士として続き明治維新を迎えた。・2005年07月07日

【資料:萩藩諸家系譜/鎌倉武士の後裔たち/平子氏の西遷・北遷展示会パンフレット/小千谷市史 ほか】

・関連リンク-●越後平子氏

●三浦氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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