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安芸白井氏
七 曜
(桓武平氏千葉氏族)


 白井氏は「しろい」または「しらい」と読む。桓武平氏千葉氏の一族で、大きくみて二つの流れがある。すなわち、千葉介常兼の二男常親が下総国白井庄に住して白井氏を称したもの。常兼の曾孫胤正の八男胤時が、先の白井氏を継承し、白井庄と香取郡白井郷を領して白井氏を称したものとである。その後、白井氏は下総白井氏、安芸白井氏、若狭白井氏と分かれていった。戦国時代、大内氏の水軍の最高責任者として活躍した白井賢胤は安芸白井氏の後裔であった。
 安芸白井氏は、加賀守胤時の代に安芸国に下向した西遷御家人のひとつであった。胤時から三代あとの親胤、その子光胤は安芸の守護武田氏から広島湾頭の海上支配を認められているから、この時期には守護の警固衆、水軍であったことがわかる。その後、明応八年(1499)三月の武田元繁以下九名の連署状に白井弾正元胤の名がみえる。その名乗りから光胤の一族と思われ、白井氏は武田家臣団のなかで、一定の地歩を築いていたらしい。
 やがて中国地方は大内氏・毛利氏・尼子氏・武田氏の実力者がしのぎを削り、戦国動乱の様相を濃くしていく。大永四年(1524)五月、大内氏は武田・尼子両氏の攻撃に踏み切り、白井光胤の在城する仁保島城は大内水軍の能美・蒲刈らの周辺土豪の攻撃を受けた。ついで大永七年三月、大内氏は武田固の安芸新城・阿南郡熊野を攻撃し、五月には白井備中守が拠る安芸の府中の要害に迫った。
 このように白井氏一族は武田方として大内氏の侵攻を食い止めていたが、光胤の子膳胤は大内方に寝返った。このとき大内義興は白井膳胤の望みに任せて、周防熊毛郡小周防内、安芸佐東郡北庄・山本・箱島の所々を宛行った。

大内水軍の将として活躍

 大内氏の被官となった白井氏は、天文十年(1541)前後、伊予河野氏の攻撃に水軍とした参戦した。この合戦で白井房胤は、家来や中間、水夫の多くを負傷させながらも、警固奉行人の小原氏や冷泉氏の指揮をうけて奮戦した。かくして白井氏は大内氏の水軍に転身したのである。この頃、白井氏の当主は縫殿介、越中守、のちに賢胤と改名した房胤であった(房胤と賢胤は父子とする説もある)。
 天文十年代、安芸の毛利氏は大内氏に属して佐東郡に千貫の所領を与えられ、戦国大名としての基礎を着々と固めていた。そして陶隆房が主君の大内義隆を殺害して、大内義長を擁立する大事件があった。このとき、石見の吉見氏はただちに陶氏討伐の兵を挙げた。これに対して天文二十三年三月、晴賢は吉見氏の居城三本松城に攻撃をかけ八月下旬まで戦いは続いた。この隙を狙った毛利氏は五月に陶晴賢と絶交して対立した。
 この間白井賢胤は、吉見方の長門阿武郡の加年要害と石見の吉見督城を攻撃している。陶氏に属して白井氏は陸上でも奮戦したのである。賢胤の「賢」は晴賢からの偏諱を受けたものと思われ、越中守に官途を進めていたこともあり、白井氏は陶方として奮戦しなければならない立場にあったようだ。
 弘治元年(1555)頃から、広島湾上において毛利氏と陶氏の衝突が続いた。白井氏は佐東郡内の毛利方の所々を海上から攻撃した。このころ、賢胤は大内水軍の最高責任者に任じられ、賢胤は陶方の水軍として大いに気炎をはいたのであった。
 厳島の合戦では、終始陶方の水軍として軍忠を励んでいたが、陶氏滅亡後は小早川家に仕え、天正十年四月、秀吉方に走った来島水軍と伊予の越智郡で戦い、河野氏から感状を受けている。白井氏は最終的には毛利氏に仕えたが、それは戦国のほとぼりが冷めた慶長年間(1596〜1615)になってからであった。以後、白井氏は毛利氏の家臣として存続した。
  
 西国白井氏の祖は、白井胤時の次男・信清であると伝わる。信清は上総国長柄郡を賜って別家をたて、長柄郡は嫡子・胤秀が継承、その嫡子胤将が早世したため、弟の胤友・胤秋の兄弟が所領の相続をめぐって争いを起こした。この争いで兄・胤友は敗れて下総国を出奔。安芸国沼田庄に土着した。
 これが西国白井氏のはじまりである。西国白井氏の流れを汲む白井胤長は南北朝時代、新田義貞に従って活躍をした。その後、胤長入道は足利尊氏に降伏し、胤長の嫡子・白井詮常は室町幕府二代将軍・足利義詮の直臣となった。詮常の「詮」は義詮からの偏諱と思われる。詮常は三代将軍・足利義満にも仕えて功があり「長門守」に任じられ、若狭国にも領地を賜わった。詮常の弟・次郎左衛門は義満から偏諱を受けて満宗を名乗り、幕府奉公衆となる。若狭国・安芸国の白井氏はともに白井胤友の子孫と思われる。



●若狭白井氏のこと

 若狭国加茂城主の家柄。若狭武田氏の家臣で、白井石見守光胤とその子・勝胤は武田氏の重臣として活躍。しかし永禄年中、武田氏に内紛がおこったため、武田氏を退いて織田信長に仕え、おそらく細川藤孝の手に属したと思われる。『武田系図』のなかには永禄二年(1559)、武田信豊の家老・逸見昌経入道が謀叛を起こしたことが記されている。同年十一月、信豊・義統の親子と逸見昌経が合戦に及んでいるが、このときの白井氏の行動は不明。ただ、永禄十年(1567)、義統の弟・信賢との対立した宿老衆はこぞって武田家に逆心して織田家に仕えている。この宿老衆は粟屋勝久、内藤勝高、逸見宗全、松宮玄蕃、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、寺川左馬助、香川右衛門大夫らであったと伝わる。
 勝胤の嫡男・民部少輔政胤は、信長亡きあとに丹羽長秀に仕え、秀吉に見いだされて秀次の家臣となった。秀次の家老には下総白井本家の白井宗幹がいた。
 しかし、文禄四年(1595)の秀次謀叛事件に連座したため没落。かわって弟・白井長胤が天正十五年(1587)に大和郡山で藤堂高虎に見出されてその家中に加わり、文禄・慶長の役から大坂の陣に藤堂軍の部将として活躍した。知行は千石。長胤は寛永十六年(1639)六月に亡くなり、彼の遺領は、娘婿の白井久胤と勝胤・雅胤兄弟に分与された。  

■千葉氏の詳細ホームページ



■参考略系図
 


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