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新開氏
●三つ巴
●秦氏流/桓武平氏土肥氏流  
 


 新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し開発領主になったのは、平安末期のころと思われる。

新開氏と土肥氏

 現在の埼玉県大里郡豊郷村大字新戒の古櫃神社の『神社調書』に「祭神、大荒明神、創立年月日不詳、鎌倉右府のとき、秦河勝の末、新開荒次郎忠氏、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を櫃に入れ社地の下に納むと、古老の口碑に伝ふ(後略)」とあり、新開氏が祖を秦河勝と伝えていたことが知られる。新開荒次郎忠氏は『源平盛衰記』に「兵衛佐殿に相従いて山に籠りける者は、土肥次郎実平・同男遠平・新開次郎忠氏・土屋三郎宗遠・岡崎四郎義実・藤九郎盛長なり」とみえ、源頼朝の旗揚げに最初から参加していた。
 新開忠氏は土肥氏一族と行動し、忠氏は土肥実平の二男実重を養子に迎えていた。実重が忠氏の養子になったのは、頼朝の旗揚げ前後のころと考えられている。鎌倉幕府成立後、土肥氏は源平合戦の功に対して播磨・美作・備前・備中・備後の総追捕使(守護)となり、大きく勢力を拡げた。
 新開氏も土肥氏の一族として幕府内に一定の勢力を築いたようだが、建暦三年(1213)の和田義盛の乱に土肥氏らとともに義盛に味方して半ば潰滅した。しかし、その後の「承久の変(1223)」に際して、新開氏は一族をあげて出陣した。宇治川の合戦において新開荒次郎が傷を負い、新開兵衛が討死したことが知られている。

新開氏の発展

 元弘三年(1333)、新田義貞が挙兵したとき、新開氏は北条高時の弟泰家入道の配下として、新田軍を分倍河原に迎え撃ち敗れている。鎌倉時代の終わりごろ、新開氏は武蔵国から北陸・南海道に移動し、越中に入った新開氏は土肥氏を名乗り、四国に上陸した新開氏は足利氏に味方し、のちに阿波守護となった細川氏に配属された。とはいえ、新開氏がいつごろ阿波に移ってきたのかは判然としない。
 新開氏の動向として観応二年(1351)の『石橋和義施行状』から、新開兵衛尉が阿波国牛牧庄雑掌定舜から乱妨を訴えられたことが知られる。ついで、文和五年(1356)阿波守護細川頼之が新開真行に書状を送っており、新開氏が阿波富吉庄の地頭職であったことがうかがえ、真行は細川頼氏麾下の腹心の武将であった。
 新開真行の勇名が轟いたのは、讃岐国白峯の戦いであった。白峯の戦いとは、康安元年(1361)、足利義詮の執事であった細川清氏が、佐々木道誉らの工作によって義詮と疎遠になり京都を出奔した。翌貞治元年(1362)、清氏は南朝方と結び讃岐国白峯山麓で挙兵した。これに、細川氏春・信氏兄弟、一宮成宗、讃岐の十河氏らが味方して、清氏の勢はおおいに振るった。
 対する幕府は細川頼之に追討を命じた。このころ細川頼之は山陽道一帯の反乱鎮圧にあたっていたが、急遽、讃岐に渡り清氏勢と対峙した。頼之は新開真行に策を授け、清氏の軍勢を二分する挙に出た。真行は作戦に沿って白峯山の大手から攻撃、頼之が搦手からそれぞれ攻撃を開始し、これに対して清氏は果敢に打って出たが、ついに戦死し一宮成宗も頼之に降伏した。戦後、細川頼之は功によって、新たに讃岐・土佐の守護職に任ぜられた。新開真行も第一の功労者として恩賞にあずかったと思われるが、その詳細は不明である。

戦乱の時代

 細川頼之は幕府管領職に就任したことで、阿波守護職は弟詮春にまかせた。その結果、頼之は上屋形と呼ばれ、弟の詮春は下屋形もしくは阿波屋形と呼ばれるようになった。その後、南北朝の合一がなり室町幕府体制が確立したが、戦乱が止むことはなかった。そして、応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発、世の中は下剋上が横行する戦乱時代へと移行していった。
 応仁の乱における東軍の総帥であった細川勝元の跡を継いで管領となった細川政元には嗣子がなかっため、九条家から澄之を養子に迎えた。しかし、その後阿波屋形の細川義春の子澄元をも養子に迎えたため細川家は二分され、永正四年(1507)、ついに武力衝突に発展して「両細川の乱」となった。この乱を通して、阿波屋形細川氏、重臣の三好氏をはじめ、阿波武士たちは阿波と畿内を往来して戦乱のなかに身をおいた。
 この戦乱のなかで新開氏の名も散見され、享禄四年(1531)、細川晴元に従って新開遠江守元吉が三好元長とともに泉州境に出陣している。ついで天文八年(1539)、細川持隆を大将として、阿波・淡路・讃岐の軍勢が伊予河野氏を討つため出動したが、そのなかに一宮長門守・海部左近将監・三好下野守らとともに新開遠江守実綱(元吉改め)が出陣している。この細川氏の攻撃で伊予河野氏の城は焼かれ、所領は荒らされて河野氏は衰退したという。
 新開氏と牛牧庄が関連をもつようになるのは、遠江守実綱のときであった。新開氏は頼之が管領に就任すると、頼之に従って上洛、以後の代々は京都に居住して上屋形細川氏に仕えていたようだ。『見聞諸家紋』には「新開氏 三つ巴」とみえ、新開氏が細川氏に仕えて京都にいたことをうかがわせている。しかし、細川氏が二分されたことで、阿波屋形から出た澄元に従い、阿波国南方の要衝の地牛牧庄の地頭に任じられたと考えられる。
 新開実綱は牛牧城(牛岐城、富岡城)を拠点として、配下に那東郡の岩佐・織原・新居氏、中荘塁の湯浅氏、越智一族らを従え、その勢力は那賀川北岸にまでおよんでいた。そして、周辺の清原氏、東条氏らが新開氏と対抗するかかたちで勢力を築いていた。清原氏はのちに清氏を称し、新開氏と合戦におよぶこともあった。一方の東条氏とははじめ友好的であったが、土佐の長曽我部元親の阿波国侵入によってその関係は急変した。

土佐軍の阿波侵攻

 長曽我部元親が阿波侵攻の機をうかがっているとき、阿波国では勝端城の阿波屋形の実力者である三好長治が、重臣の篠原長房を攻め滅ぼすなど失策を犯していた。これに対して阿波屋形の細川真之は長治の態度に憤激して、勝端城を出て仁宇山に入った。天正五年(1577)、長治は真之を討つため兵を仁宇山に向けた。この状勢に際して一宮・伊沢・吉井の諸氏が真之に味方し、ついに長治は敗れて自殺した。長治の死によって、弟の十河存保が三好家を相続した。
 阿波の混乱をみていた長曽我部元親は、天正五年、海部郡と吉野川の峡谷ぞいの二方面から阿波に侵攻した。桑野の東条氏、仁宇の仁宇氏らは長曽我部元親に降ったが、牛岐(牛牧)城主の新開道善(実綱改め)は容易に降伏しなかった。そのため、桑野の東条氏とはたびたび戦いを交えた。戦いは新開氏が優勢で、東条氏は長曽我部氏に援軍を求め、天正七年、中内兵庫を大将とした土佐軍が新開氏を攻撃し、道善は手痛い敗北を喫した。その翌年、ついに新開道善は長曽我部氏の軍門に降り、牛岐城は香曽我部親泰の支配下に入った。
 天正十年、織田信長は四国征伐を企図し、十河氏を支援した。ところが、いよいよ四国進攻という矢先の六月、本能寺の変で信長は死去した。八月、長曽我部元親は二万三千の軍勢を率いて阿波に進出し、中富川で十河存保と決戦、十河軍に潰滅的打撃を与えた。この戦いに新開道善も参加して、一宮氏とともに長曽我部軍の先陣として奮戦した。
 中富川の勝利によって長曽我部元親は四国をほぼ制圧し、元親は阿波諸将のうち謀叛の疑いのあるものを除いて後顧の憂いを断った。その鉾先は新開道善にも向けられ、九月、元親は論功行賞について話し合いたいと道善を招き、道善は丈六寺において殺害された。道善の嫡子実成は桑野付近で自害したといい、新開氏は長曽我部氏の阿波侵攻によって滅亡した。・2004年11月16日

●新開道善の最期
 新開道善は、平忠之といい、遠江守を称していた。その祖先は、南北朝内乱のころに細川家の被官となって、牛岐城主として、南方で有勢を伝えられたが、その詳細については目下のところ十分にはわかっていないが、おそらく那賀郡牛岐荘の地頭として勢力を伸ばしてきた。道善は、永禄年間から牛岐城によったと伝えられているが、三好義賢が守護細川持隆を倒したのち、義賢との間に主従関係を結び、三好氏の南方における軍事及び政治上の重要な領国支配の一端を担っていたのである。阿波南方において、もっとも元親を苦しめていたのが、牛岐城主の新開道善であり、元親の道善攻略は阿波作戦の重要な戦略のひとつであった。  元親は牛岐城を天正七年(1579)に陥れ、道善は一旦元親の軍門に降った。道善の降伏を聞き知った一宮成助も、その直後に降参した。「元親記・中」によれば、元親は旧三好方の阿波の諸将をつぎつぎに除いていったのであり、そのことが阿波における伝承に、元親の非情さを非難するものが多く、元親を諸悪の根源のように語り伝えられてきた理由となっている。元親に降伏した道善は、勝瑞の三好氏とは細々と連絡をつづけていたようである。また道善の拠る牛岐城は一名浮亀城といい、城下を流れる琴江川の土手を切れば、たちまち城下は水びたしになって城は孤立し、さながら大海に亀が浮かぶような格好となったので、攻め手は手も出せなかった。  そこで天正十年(1582)勝瑞落城後、元親は道善を丈六寺に誘い出し、その後の政略を相談したいという書状を信じて寺に入ったところを包囲されて誅殺されたと阿波の伝承には書き伝えられ、寺では道善の血に染まった床を天井に張り、丈六寺の血天井として阿波では有名な伝説の一つであるが、「元親記」では切腹させたことになっており、その真相は今日まで謎に包まれたままになっている。
・お奨め(参考)サイト…中世の阿波

参考資料:阿南市史/徳島大辞典 ほか】


■参考略系図


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