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奈良氏
●剣唐花
●多々良氏流?  
・見聞諸家紋から。  


 奈良氏は室町幕府管領をつとめた細川京兆家の被官で、武蔵国大里郡奈良を根拠とする関東御家人であったと伝えられている。武蔵忍城主であった成田氏の系図をみると、成田大夫助高の三男高長が大里郡奈良に住んで奈良三郎を称したとあり、成田氏流ともみられるが確証があるわけではない。一方、室町時代に成立した『見聞諸家紋』には奈良氏の巻紋が収録され、「多々良 奈良」とあり、多々良氏を称していたようだ。
 奈良氏は貞治元年(1362)の高屋合戦で戦功をあげ、細川氏から鵜足・那珂の二郡を賜った。これは讃岐を重視した細川氏が、油断のならない在地武士を排除し、信頼できる奈良氏を讃岐に奈良氏が讃岐に配したものであった。のちに讃岐を二分した安富氏、香川氏も同じようなかたちで讃岐に入部し、それぞれ守護代をつとめて勢力を拡大したのである。
 かくして、奈良氏は細川家中に地歩を築き、弾正入道、奈良又四郎らが摂津守護代としてあらわれ、応仁の乱のころ太郎左衛門元安が登場した。 元安は細川勝元に仕えて、香川肥前守元明・香西備後守元資・安富山城守盛長とともに「細川京兆家の四天王」と称された。
・成田氏のページ

讃岐に入部する

 元安は城を宇多津に築いて居住し、香川・安富・香西ら讃岐の諸将とともに細川勝元に従って応仁の乱に身を処した。文明四年(1472)の相国寺合戦は、安富元綱・盛継らが戦死するという激戦となったが、この戦いにおける元安の勇戦は絶賛されたという。
 元安のあとを継いだ備前守元信は、管領家の篤い信頼を得て、常に在京して執事をつとめた。元信は京都の近くにも所領をえて、宇多津には子太郎兵衛元政を置いて後藤左衛門佐、物集大蔵大夫、進士隼人佐等を後見とした。
 奈良氏が後楯とした細川氏は勝元が死去したのち、政元が家督を継ぎ幕府管領として権勢を振るった。しかし、永正六年(1506)、後継者をめぐる内訌で香西氏らによって暗殺されると、細川氏は内部抗争を繰り返すようになった。代わって三好氏が台頭し、細川氏を凌駕して幕政を壟断し畿内を支配下においた。
 三好氏の勢力は讃岐にも進出し、東讃の安富・寒川・香西・由佐氏らが三好氏の軍門に降った。この間、奈良氏は次第に勢力を失っていったが、鵜足・那珂の二郡において一定の勢力を保っていたようだ。天文二十二(1553)、三好氏の重臣篠原氏が讃岐の守護代として入ると、宇多津は篠原氏に押さえられ、奈良氏は勢力を失っていった。その後、奈良氏は三好氏の支配下に属し、元亀二年(1571)、三好氏の備前出陣に従って児島賀陽城攻めに参加している。
 どうにか勢力を保っていた奈良氏であったが、戦国時代後期になると奈良氏の家臣新目・山脇氏らが香川氏に通じるようになった。そのような天正三年(1575)、那珂郡の奈良氏領の代官をつとめていた金倉顕忠が香川氏に攻め滅ぼされ、奈良氏は那珂郡領主の地位を失うに至った。かくして奈良氏は、所領の大半を失い、津郷の二村、川津などの数村を領するばかりの身上になってしまった。

奈良氏の没落

 やがて、奈良氏はあらたな危機に見舞われることになる。土佐を統一した長曽我部元親が、阿波・讃岐への進攻を開始したのである。天正六年、阿波藤目城を攻略して讃岐をうかがった。これに対して、讃岐の十河存保は香川信景・奈良太郎左衛門元政・羽床大隅守らに命じて藤目城を攻撃させた。元政は奮戦して藤目城を攻略、家臣新目弾正を守将に置いて兵をひきあげた。
 その後、元親は西長尾に城を築き、国吉甚右衛門を守将とした。太郎兵衛元政は長曽我部勢に進出に対して、栗熊村に砦を築いて後藤左衛門佐に守らせた。
 天正十年(1582)、信長が本能寺の変で殺害されると、元親は一気に阿波・讃岐に兵を進めた。長曽我部軍は諸城を落とし、宇多津にも攻め寄せてきた。元政は十河存保に支援を求めたが、存保にその余力はなく、ついに元政は城を捨てて香西伊賀守に合力しようとした。家臣を率いて東に進んだ元政は小山に陣を布こうとしたが、にわかに大雨となり、野陣をあきらめ山下の観音堂に入って夜を明かした。その後、阿波に入り十河存保の麾下に属した。
 長曽我部の攻撃を前にした存保は、城を出て勝瑞の中富川へと押し出した。元政も存保に従って出陣、物集と進士を左右の将として長曽我部と戦い乱戦のなかで討死した。こうして、讃岐は長曽我部元親に制圧されたが、元親は豊臣秀吉の四国平定軍に敗れて、土佐一国を安堵されるに留まった。
 元政は宇多津を出る時、幼かった子太郎左衛門らを上方へと退かせていた。元親が降伏したのち、讃岐には仙石秀久が配され、讃岐の諸将は仙石氏に従った。上方にあった太郎左衛門は宇多津に戻って津郷村に住し、世に出ることなく生涯を終えたという。・2006年4月3日

参考資料:新宇多津町誌/現代語訳:西讃府志 ほか】


■参考略系図
・詳細系図は不詳、元政と勝政は同一人物ともいわれる。奈良氏の系図をご存知の方、ご連絡ください。






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