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宮 氏
●五葉木瓜
●備後国一宮社家後裔?  
 


 宮氏は備後国の有力国人として、山内・三吉・和智・杉原氏と並ぶ存在であった。そして、南北朝期から戦国期にかけて活動し、室町幕府奉公衆としてもその名を史上に刻んでいる。しかし、戦国末期に宮氏の主流にあたる家が滅んだため、宮氏に関するまとまった史料や系図類は失われてしまった。そのため、宮氏の全容を明らかにすることは困難となっている。
 宮氏の出自に関していえば、一説に吉備公の子孫、二説に小野宮左大臣清慎公(実頼)の末裔、三説に村上天皇の後胤、四説に源義家の弟加茂二郎義綱の四男義俊が宮三郎を称して宮氏の祖になったとするものなどがある。宮氏の一族で、毛利氏に仕えた有地氏の系譜によれば、藤原鎌足二十二代の孫、杉刑部少輔兼之の嫡子下野判官正信より出ると伝えている。しかし、有地氏の系図の記述を裏付ける資料はない。
 ところで、室町中期に成立した『見聞諸家紋』をみると、宮氏の家紋は「吉字に木瓜」として記載され、浄久寺に伝わる宮盛重の肖像画にも「木瓜」紋が描かれている。また、備後国一宮吉備津神社の神紋も「木瓜」であり、宮氏は吉備津神社社家の一族ではないかとする説もある。元弘元年(1331)、後醍醐天皇に味方して備後一宮で挙兵した桜山四郎入道は宮氏の一族で備後一宮吉備津神社の社家と述べており、宮氏が吉備津神社社家の一族とする説にはうなづけるところがある。



■ 左:『見聞諸家紋』にみえる宮氏の家紋/右:備後国一宮吉備津神社の神紋


宮氏の登場

 南北朝時代、足利尊氏に味方して、備後の砦として活躍した宮氏一族の姿が『太平記』にみられる。宮氏はもともと後醍醐天皇方として、元弘三年(1333)頃、備後において挙兵したものである。しかし、後醍醐天皇に尊氏が叛した建武二年(1335)の末には、尊氏方の諸国の勢のなかにその名がみえ、武家方に属したことが知られる。
 下野判官正信の子宮下野守兼信は、康永元年(1342)の伊予国の土肥昌義攻めに参加した。尊氏と弟の直義が対立した「観応の擾乱(1351)」には尊氏方に属し、観応二年(1351)、高師泰の石見攻めの軍勢に加わって奮闘している。翌年、南朝方の京都進攻によって足利義詮は近江に逃れたが、その後の義詮の京都奪回の合戦に「宮入道」が備前の松田氏らとともに参加して功をたてている。
 兼信が活躍したころ宮下野権守盛重がおり、貞和二年(1346)、幕府の命を受けて備後国内の所領押妨人を排除する使節として活躍しており、兼信と同じく尊氏に味方して活躍していた。盛重を兼信の長子とする説もあるが、名乗りや活動時期などから、別流宮氏の人物と思われる。観応の擾乱に際して、盛重は直義=直冬党として活躍した。
 一方、兼信と子の氏信は一貫して尊氏方に味方し、正平十七年(1356)、足利直冬と富田直貞の連合軍と戦ってこれを撃退している。康安二年(1362)、直冬の大軍が宮氏の居城亀寿山城を包囲し、味方になるように誘ったが下野入道(兼信)と子の下野二郎氏信はこれを撃退している。このような宮下野入道の忠勤に対して幕府は、貞治三年(1364)、備中国守護職に任じて報いている。このとき、源氏の姓を与えられ屋形号を称することが許されたようで、のちに宮氏が源氏を称するもとになった。
 守護職は翌年には解任され、以後、宮氏が守護職に補任されることはなかったが、その後、杉原氏、三吉氏らとともに室町将軍近習・奉公衆として京都でも活動するようになる。

宮氏一族の分流

 前記のように宮氏にはいくつかの流れがあったようで、幕府奉公衆の番編成などから三つの系統に分かれていたことが知られる。一つは左衛門大夫を名乗る宮氏、二つは上野介を名乗る宮氏、三つめが、官途下野守をもつ下野守家である。
 上野介を名乗る宮氏は満信・教信など「信」の字を名乗りとしており、氏信の子孫とみられる。また、満信・教信は将軍からの偏諱を受け、将軍に近侍していたことが知られ、氏信系の嫡流であったようだ。  一方、宮氏の惣領家は惣領が名乗る官途下野守をもつ下野守家であったと思われる。『西備名区』に記された亀寿山城主の系譜は、小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔師盛→越前守満盛→下野守満重→下野守元盛→駿河守教元→下野守政盛→親忠が記され、将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。そして、歴代の当主は残された文書や記録などにみえる下野守の存在と活動時期に矛盾はない。政盛の寿像の賛によれば、政盛は延徳元年(1489)将軍義尚が催した六角氏討伐軍に加わり忠節を尽くしたことが記されている。
 しかし、亀寿山城は南北朝時代において兼信・氏信父子が居城としていたことが知られ、いつ、盛重系が亀寿山城主となったのかは不明である。いずれにしろ、宮氏の場合、氏信系と盛重系の二系が双璧であったようだ。
 宮氏一族の所領は備後国内に散在し、氏信系宮氏は備後南部に勢力を伸ばし、盛重系宮氏は備後北部に支配を伸ばしていった。下野守家の場合、盛重の代に奴可郡に勢力を伸ばし、やがて、久代宮氏、小奴可宮氏を分出させた。久代宮氏は比田山城を本拠として代々上総介を称し、戦国時代には奴可郡全体におよぶ豪族に成長した。

戦国乱世を生きる

 さて、宮氏の惣領家と思われる下野守家は、戦国時代の天文のはじめ(1532〜)に断絶したようだ。すなわち『大館常興日記』の天文十年(1541)の条に、宮下野守家が断絶したので一族の宮彦次郎が下野守の所領を切り取って大内氏の味方になり、宮惣領家の安堵を求めている、との記事がみえている。ここに断絶したとある下野守家は盛重系の宮氏と思われるが、盛重系の消息は永正十四年(1513)に活動が知られる新五郎親忠を最後に不明である。可能性として、天文のころ断絶した下野守家は、氏信系宮氏嫡流とも考えられるが、その判断は困難である。
 戦国期の宮氏は、尼子氏の勢力の傘下に入り、天文十七年(1548)のものと推測される大内義隆書状によれば、宮氏は尼子氏と対立する大内氏に攻められ、その居城が落城している。他方、有地氏系譜によれば、宮直信は甲山城主山内氏を攻撃したが、山内氏を支援する大内氏に攻められ、直信は病死し子の元盛は大内氏に降服したとある。
 天文十年(1541)、尼子晴久が毛利攻めで敗北すると、芸備石の国人らは大内氏に与し、大内氏が出雲へ出陣するときは、味方に馳せ参じる旨を大内氏の重臣陶隆房へ申し送った。そのなかに、宮若狭守が見えるが、元盛のことであろう。元盛のあとは高信が継ぎ、この高信の代に元就の麾下に入り、宮から有地に改めたという。
 他方、奴可郡全体を支配した比田山城主久代宮氏は、尼子氏に従って備前方面に出陣し、小奴可宮氏の所領を押領し、甲山城の山内氏と争い領地拡大につとめた。かくして尼子氏と結んで奴可郡の豪族となった久代宮氏は、毛利元就から警戒されるようになった。やがて、元就が勢力を拡大すると、宮上総介景盛は小奴可宮氏出身の興禅寺策雲元龍のはからいを受け、天文二十二年(1553)毛利氏に属するようになった。
 かくして、備後に勢力を維持してきた宮氏は、主流こそ断絶したが、庶流の諸氏が乱世を生き抜き、近世へと生き残ったのである。・2005年6月8日

参考資料:室町幕府守護職事典/広島県史/萩藩諸家系譜 ほか】


■参考略系図
・兼之から氏信以下の系図は、『萩藩諸家系譜』に収録された「有地氏系譜」から作成したものです。盛重系は、文書、記録から復元されたものを転載しました。


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