三村氏
剣酢漿草・三つ柏
(清和源氏小笠原氏流) |
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三村氏は常陸国筑波郡(筑摩郡・新治郡とも)三村郷を本貫地とされている。その一流が備中国へ入部したといわれるが、史実については不明な点が多い。とはいえ、『太平記』の中で元弘の辺に際し、「備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁」とあるところから、三村氏が蜂起に加わっており、鎌倉末期までには備中に居住し、在地土豪となっていたと推定される。
『備中国の国人三村氏について(岡田政男氏)』には、三村氏は小田郡美星町大字三山の地頭職であり、鎌倉の御家人として有力な地頭的領主層であったと論じられている。また、三村氏は悪党的な非御家人の荘官や新興名主層ではなく、惣領制組織をもつ御家人の武士団であろうともされている。
さらに、その出自を求めれば、常陸国筑波郡三村郷とされ、そこから信州狭江(洗馬郷か)を経て備中に入ったとされる。すなわち、新羅三郎義光から四世長清は常陸の松尾城にいて小笠原氏を称した。長経を経て長時は常陸国筑波郡三村郷に住し、三村氏を名乗ったという。承久の乱の功によって新補地頭として備中国に入部したと思われている。
長時の子親時は信州に移住し、長清五世の孫能実が、元弘の乱に船上山に駆けつけ、その功によって星田郷の地頭職に補せられたともいう。
●三村氏の勢力拡張
明徳四年(1393)十月、斯波義将から細川兵部大輔に宛てた書状には、成羽庄へ三村信濃入道(時親か)が侵入し、一族んもものを居住させて、何かともめ事を起こしているので、中止させてもらいたいという内容が記されている。このころ、星田郷から北進を始めた三村氏は、守護細川氏から厳しい注意を受けながらも、天龍寺荘園であった成羽郷へ進出してこれを押領し、居館を築き、また戦闘拠点としての鶴首城を整備したようだ。
三村氏の動向が明かになるのは宗親以後で、諸説はあるが宗親以前については不明である。宗親は細川高国に属し、水内北庄、新見庄を侵している。その子家親は知結兼備の武将で毛利元就に属して、毛利氏の勢力を背景に備中に覇権を拡張した。天文二年(1533)成羽郷に進入して、成羽村の中央部に居館を築き、松山城を庄高資から奪い、本拠を松山に移している。
戦国大名として勢力を伸ばすのは家親の代である。天文二年(1533)家親は守護であった山名氏の領国下にあった備中の支配を目指し、安芸の国人毛利氏の援護を得て成羽に進出し、成羽城を改修し拠点とした。天文二十二年、備中南部の有力国人である猿掛城主庄為資を攻略し、さらに永禄三年(1560)には備中松山城主庄高資を敗り、本拠を松山城に移した。
備中をほぼ手中に収めた家親は、永禄六年には備前に進出し、備前岡山の船山城を攻略した。さらに、同年五月には美作に侵攻し、後藤氏の居城三星城を攻撃するが、これは失敗している。翌七年、毛利氏の薦めにより、伯耆に出兵した。同九年、家親は再び美作・備前に侵攻し、浦上氏の被官として急成長した宇喜多直家の支城を攻略し、直家の本城である亀山城に迫る勢いを見せた。
これに対し、直家は備前国赤坂郡中村の豪族遠藤又三郎を遣わし、美作興善寺に在陣中であった家親を狙撃し、これを暗殺した。家親の弟親成はこれを隠して、成羽に帰陣した。一方、三村氏一族の三村五郎兵衛は、家親の弔い合戦として百余騎の軍勢を率いて宇喜多直家の居城亀山城を攻めたが、返り討ちにあい、五郎兵衛は討死した。
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