美作 荘(庄)氏
三つ引両
(武蔵七党児玉氏流) |
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庄氏は武蔵七党の一つ児玉党から出た。『保元物語』に「児玉に荘太郎」とみえ、『平家物語』には「庄三郎忠家、庄四郎高家」等が載せられ、『源平盛衰記』に「児玉には、庄太郎家長、同三郎忠家、同五郎広賢」らと載せられるなど、中世の軍記物語のなかに庄氏一族の名をみることができる。
庄太郎家長は、一の谷の合戦において平重衝を生け捕った。この功によって備中国草壁庄を賜り、武蔵国から移り住んだという。
元弘の乱には、庄左衛門四郎が六波羅に馳せ参じて、探題北条仲時に従って忠死している。『太平記』にも「備中国の住人庄三郎」、「庄左衛門四郎、六波羅勢として近江番場に死す」と記されている。近江番場の連華寺過去帳には「荘左衛門四郎俊充」とその名が残されている。
●備中の有力国人に成長
戦国初期の荘(庄)元資は細川氏に仕えて伊豆守と称し、備中守護代を勤め、猿掛城を本拠に勢力を強めた。応仁の乱中、文明三年(1471)、備中守護細川氏に属して備後柏村で菅氏と戦い、弟資長を失っている。文明十二年(1480)三月、安富元家らとともに丹波に発向、一宮宮内大輔を討滅し、のちにその功を元家と争っている。延徳三年(1491)守護細川氏に対して反乱を起こし、京都にいた細川勝久は軍勢を率いて下国し、一応おさめたが、以後、守護支配は弱まり、備中国衆が台頭してくることとなる。
その子為資は、永正四年(1507)将軍足利義尹の激に応じて安芸に出兵。その後、尼子氏に属し、天文二年(1533)植木秀長と結んで、上野備前守頼久の拠る松山城を攻めてこれを滅ぼし、居城を猿掛城から松山城に移した。以後、備中守を賞し、備中最大の在地勢力を形成した。天文九年(1540)尼子勢として安芸の毛利氏を攻めて敗れた。同二十二年(1553)毛利氏の備中進出に呼応した成羽城主三村家親は猿掛城を攻略し、長男元祐を荘氏の養子とし、猿掛城主にするなど荘氏を圧倒する勢いとなった。とはいえ、松山城は為資が保持した。
天文の末年から備中方面へ、尼子・毛利・宇喜多氏などの勢力が進出してきたことで、在地の領主たちは複雑な動きをみせる。毛利氏は荘為資の跡を継いだ高資が尼子氏と誼を通じたので、備中における尼子勢力の強化を恐れ、元亀元年(1570)、三村元親を先陣として松山城に攻めよった。高資は毛利氏と果敢に戦ったが、ついには敗れて討死、荘氏は滅亡した。また、別説に拠れば、高資は三村家親の手で永禄三年に殺されたともいう。
その後、毛利元就の子元清が猿掛城の城督となり、もとの領主であった荘氏の別称穂田氏を名乗った。天正十七年、広島城の建設が始まると、元清は普請奉行として活躍、吉川元春や小早川隆景とともに、よく毛利家をもりたてた。元清はのちに毛利氏に復し、その子秀元は長府藩の祖となった。
■参考略系図
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