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美作三浦氏
丸に三つ引両
(桓武平氏三浦氏族)


 三浦氏は関東の豪族三浦義明の後裔と伝えられる。すなわち三浦義明の子義澄の弟に佐原義連がおり、義連の子横須賀時連の子に杉本下野守宗明がいた。そして、宗明の次男貞宗が美作三浦氏の祖になったという。しかし、貞宗の美作入部の時期については、諸説あってよく分からない。美作に入部した貞宗は高田城を築き、随慶寺・化生寺を建立した。その後五代にわたり、在地豪族として勢力を築き、貞連のときに全盛期を迎えるのである。
 貞宗の子行連について、暦応二年(1339)十月の天龍寺創建に際して、随兵として三浦遠江守行連の名が見え、その後、貞和五年(1349)、高師直と足利直義が不和となった「観応の掾乱」のとき、行連は師直方となって、直義邸を三浦駿河次郎左衛門藤村とともに襲撃している。さらに、同四年、応安元年(1368)に、越後奥山庄についての近隣土豪の領内侵入を幕府に訴えていることが、三浦和田文書に見えていることから、行連は父貞宗とともに横須賀に在住し、いまだ、美作高田には下向していなかったようだ。
 長亨元年(1487)、足利将軍義尚の江州在番衆に三浦駿河守貞連の名がみられる。すなわち、足利義尚が、近江守護佐々木高頼を討伐した際に、貞連は佐野貞綱、有元民部丞、安威新左衛門らとともに、将軍に従って、近江坂本に出陣したのである。

乱世と三浦氏

 その後、応仁の乱が勃発し、美作の守護は赤松、山名の両氏が交互に争奪するところとなり、文亀年中、当時の守護山名氏の篠向城を攻略、家臣福島・金田等にこれを守らせた。『作陽誌』に、「貞連恒に篠向城を伺う、一日攻めて城将山名右京亮を殺し、その将福田、金田、近藤等をして之を守らしむ」とある。このころから、三浦氏も戦国時代の争乱の中に巻き込まれていった。そして、この頃までに福島・金田・牧・船津等の在地土豪を家臣団に編成したものと考えられる。
 天文元年(1532)七月、三浦貞国が没し、その子貞久が家督を継いだ。貞久の代、天文四年のころには、本庄・建部郷を勢力下に収めている。このころ、出雲の尼子晴久は伯耆、稲葉を攻略し、天文十三年(1544)、美作の久米郡、苫田郡、勝田郡の諸城を陥し、その部将宇山久信は二千余騎で高田城に迫った。これに対し、貞久はよく城を守り、尼子軍を撃退した。その後、尼子氏との戦いは天文十六年(1547)にもあったが、このときも尼子軍をよく撃退した。ところが、同十七年、貞久が病死し、嫡子貞勝が十一歳で家督を継いだ。そして、幼少の貞勝を叔父の忠近・貞尚・貞盛らが後見した。
 貞久の死を知った尼子氏は、その機に乗じて攻撃を開始した。これに対した三浦氏の浦山城、沢の城、美甘、大料の諸城は陥され、尼子軍は高田城に迫った。尼子方の大将は宇山飛騨守であった。三浦城はよく防戦したものの宇山氏の猛攻に、ついに高田城は落城した。
 落城後、貞勝は叔父貞尚に扶けられ、浦上氏の部将で久米郡岩屋城主の中村五郎左衛門を頼っていた。そして、永禄二年(1559)、尼子氏が安芸の毛利氏の攻撃を受けている隙を突いて、貞久の旧臣牧兵庫助・金田加賀守等が高田城を奪回し、貞久の嫡男貞勝を城主とした。
 しかし永禄の初め、尼子氏の勢力が衰えてくると、西より毛利方に属していた備中松山城主三村家親が毛利軍の先鋒となって、永禄四年(1561)、同八年と美作の諸城を攻撃し、永禄八年十一月、高田城を攻撃した。攻防一ケ月、高田城は猛攻に耐えかねて、貞勝は自刃、城はふたたび落城した。

三浦氏の興亡

 落城のとき、貞勝の妻お福の方は、子の桃寿丸とともに城を脱出し、備前津高郡下土井村に隠れた。その後、三村家親は、当時、美作久米郡を領有する宇喜多氏を攻撃したため、宇喜多氏により永禄九年(1566)暗殺されるという事件があった。三村家親が暗殺されると、この虚に乗じ、三浦家旧臣の牧・玉串・市氏らは、貞久の末弟貞盛を大将として、高田城を攻撃し、城将の津川土佐守を討って、城は再び三浦氏の手に戻り貞盛が城主となった。
 しかし、貞盛の在城も永くな続かなかった。当時、毛利氏に降った尼子氏の再興を図り、山中鹿介らは尼子勝久をかついで毛利氏に対抗しようとしていたのである。これを知った毛利氏は、尼子勝久攻略を開始し、高田城もその攻撃の対象となった。永禄十二年(1569)、毛利の部将香川晴継、牛尾、三沢、三刀屋等の軍が高田城を攻撃、城は落ち、貞盛は討死した。
 落城当時、備中に出陣して合戦に参加していなかった貞盛の甥、貞勝の弟貞広が三浦氏の家督を継承し、備前の宇喜多直家に加勢をたのみ、直家から四千の援軍を得て、高田城奪還の攻撃を開始した。このころ、貞勝の死後、備前に逃れていたお福の方は、宇喜多直家の室となっており、その子桃寿丸を直家は我が子同様に養育していた。直家からの援軍はその縁故によるものであったろう。
 貞広の攻撃に対して、毛利方の護りは堅く、城はなかなか落ちなかった。そのうち、城中の尼子氏の旧家臣が毛利方を寝返るという事件が起こり、毛利元就は、当時九州攻めの兵の一部を割いて高田城救援に駆けつけさせた。そして、激しい合戦が繰り返されたが、城は落ちず、宇喜多勢はあきらめて兵を引いてしまった。やむなく、貞広は尼子の大将山中鹿介に援軍を求めた。鹿介は、これを容れて千余の軍を率いて援軍にきた、ここに至ってさすがの毛利方も敗れて、高田城は落城した。時に元亀元年(1570)十月、高田城は三度、三浦氏の手に帰した。


勝山を訪ねる

旭川の水面に映える高田城址 ・本丸の切岸 ・普段の居館であったという三の丸跡 ・玉雲山化生寺境内にある三浦貞宗供養塔

→高田城址に登る



流転、そして滅亡

 しかし、その後も毛利氏の美作侵略は続き、天正元年(1573)、同二年、同三年と連年、三浦氏の属城を攻撃している。さらに毛利氏のみではなく、宇喜多氏も、高田城を攻略しようと、その属城を攻め始めた。ここに、三浦貞広は、毛利氏、宇喜多氏の二大勢力にはさまれ、孤立無縁となった。天正四年(1576)春、宇喜多氏は、老臣花房助兵衛を城に入れて、毛利氏との和議を貞広に説いた。結局、貞広はころを容れる以外になく、城を開いて、毛利氏の軍門に降った。
 一方、直家のもとで養育されていた貞勝の遺児桃寿丸は、天正十二年(1584)京都に上ったとき、地震に遭い圧死するという悲運に見舞われた。そして、ここに三浦氏再興の途は絶たれ、美作三浦氏へ滅亡にいたったのである。

●三浦氏の家紋─考察


■参考略系図



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