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美作後藤氏
上り藤に三つ星*
(藤原北家利仁流?)
*「岡山の家紋」の小林さんから御教示いただきました。


 美作における後藤氏の初見は観応元年(1350)の山名義理書状である。それによれば後藤下野守が塩湯郷地頭職を推挙されており、以後、康季・良貞が地頭職を受け継いでいる。
 三星城主後藤勝国の初見は明応七年(1498)である。塩湯郷地頭職と三星城主後藤氏との関係は不明である。室町時代、西播から東作にかけて後藤一族は多々蟠居しており、三星城主後藤氏もその一流であろう。明応七年、後藤勝国は美作中央部の立石氏を攻略し討死。その子勝政によって、文亀二年(1502)立石氏を滅ぼし、東作州に覇を確立した。
 勝基にいたってその勢力は全盛を極め、安東氏を初め、江見・水島・小坂田ら近隣の在地土豪をその支配下に組み入れた。弘治二年には、赤松氏の一族豊福氏の勢力を東作州から一掃した。
 勝基ははじめ尼子氏に付いていたが、その勢力が衰退すると、備前の浦上宗景に従い、尼子氏と対立するようになる。対岸の倉敷城は尼子氏の勢力下にあり、永禄九年(1566)尼子氏の滅亡後、江見氏を在番とした。永禄九年から元亀二年に至る間、勝基は完全に東作州を掌握した。とくに在地第一の土豪であった江見氏に対しては配慮し、その名跡を存続させるべく庇護者となっている。


三星城址を訪ねる
滝川方面から城址を見る ・後藤氏居館跡へ ・伝二の丸跡を見上げる(急坂のため登頂断念) ・いまも水を湛える井戸

→三星城址に登る



 勝基の後嗣が与四郎基政である。基政の初見は天正二年(1574)で、勝基の後見によって施策が行われたようである。浦上宗景を備前神山城に滅ぼした宇喜多直家は、同七年。美作を制覇するために出兵した。同年三月ごろから三星城攻撃がはじまり、五月落城し後藤氏は滅亡した。
 勝基は自刃し、基政は落ちのびたと伝えられている。


■参考略系図
・美作後藤氏の系図は何種類かのものが伝わっているが、異同が多く、その真実は不詳としかいいようがない。


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