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口羽氏
洲 浜
(毛利氏庶流宍道氏一族)


 毛利氏の有力庶子家である坂氏の一族志道元良の次男通良(元良の子広良の子とする説もある)が、石見国邑智郡口羽村を領して、口羽氏を称したことに始まる。元良の長男志道広良は、興元・幸松丸・元就と三代にわたって毛利家の執権職をつとめた。幸松丸が病死したのち、元就の毛利宗家の家督継承を実現した立役者であった。広良が死去した弘治三年(1557)頃から、通良が元就の信任を得て重用されるようになった。
 永禄五年(1562)、毛利氏に帰属した出雲衆赤穴氏の重臣来嶋清行と起請文を取り交わし、元亀元年(1570)には、同じく出雲国衆湯原氏の軍忠を吉川元春とともに元就・輝元に上申するなど、山陰方面の外交に活躍している。余談ながら、通良の名乗りは元就の命によって、甲山城主山内氏を毛利方に勧誘するため交渉にあたっていたとき、山内氏から一字を送られたものである。
 また、元亀元年(1570)頃から毛利一族の吉川元春・小早川隆景、ならびに譜代筆頭の福原貞俊とともに、当主輝元を補佐する毛利家最高幹部の一人として政策決定にも参画した。同三年の毛利氏掟の制定では、輝元から命じられた条々を四人の名前で年寄衆・奉行衆に下すなど、権力の中枢に位置した。
 軍事面では、おもに吉川元春を補佐して山陰地方の平定に尽力し、ときには毛利輝元の軍事指揮権を代行して前線にたつこともあった。天正十年(1582)、毛利氏と羽柴秀吉が和睦してほどない七月に死去、享年七十歳であった。
 江戸時代の萩藩に口羽氏は、寄組に三家、手廻組に一家、大組に一家が存在したことが知られる。


■参考略系図
    


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