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上津浦氏
●四つ長石畳
●劉姓大蔵氏流


 上津浦(こうつうら)氏は肥後国天草郡の国人領主で、天草氏、大矢野氏、長島氏らと同じく、大蔵氏の後裔といわれる。すなわち、原田種直の子孫というが正確な系図などは伝わっていない。上津浦氏が記録にはじめて出てくるのは、至徳元年(1384)、上津浦上総介が長島伊豆守とともに、犬追物に登場したものである。いずれにしても上津浦氏は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、天草上島北部に勢力を蓄えていったようだ。
 南北朝時代末期の元中二年(1386)、上津浦若狭入道は相良氏に攻められた。以後、相良氏麾下にあったようで、人吉市にある観音堂に残された天文五年(1448)ごろの鰐口に、上津浦上総介の刻銘が残されている。文明八年(1476)には、上津浦邦種が相良為続と佐敷で会い、天草郡中の分を依頼されたことが知られている。
 このころ、天草諸氏は一揆を結び、それぞれの権益を守るとともに外敵に備えていた。そして、肥後守護の菊池氏、あるいは人吉の相良氏など近隣の有力大名との関係を保っていた。永正二年(1505)、菊池氏の申次から、宮地・長島・栖本・大矢野氏に送った書状には、天草大夫跡のうち本砥・島子は、志岐・上津浦氏に与える約束をしたが、島子村は上津浦上総介に与えるとの上意を申し送っている。これは、菊池氏の内紛に際して天草諸氏が菊池氏に味方したことへのお礼であったと思われる。

栖本氏との抗争

 天文元年(1532)、上津浦治種は天草氏を中心とする連合軍に攻められ、相良義滋の援軍を得て、これを撃退した。以後、上津浦氏は相良氏との関係を深め、天文十二年には上津浦孫太郎が相良長唯から右衛門大夫の官名を与えられている。天文十五年に晴広が長唯のあとを継ぐと、八代に家督を祝う使者を派遣した。その後も、天草諸氏と相良氏とはいろんな形で関係の強化をはかっている。
 その間の天文十三年、上津浦氏は栖本氏に攻められ棚底城を失い、上津浦城まで攻撃にさらされた。ついには、上津浦城も退く結果となり、以後、天草上島は栖本氏が勢力を振るった。これに対して上津浦氏は、天文二十年(1551)、天草・大矢野と連合して栖本氏を攻撃した。このとき、肥前の有馬氏も上津浦氏に援軍を送っている。
 こうして、上津浦氏と栖本氏の抗争は永禄九年(1566)まで、天草諸士を巻き込むかたちで連年のように繰り返され、なかでも弘治二年(1556)から翌三年にかけての戦いは激しかったという。弘治二年、栖本氏の攻撃を受けた上津浦氏は、かえってこれを撃退すると栖本領に攻め込んだ。一方、栖本氏は相良氏に援軍を求め、これに対して上津浦氏は天草・志岐氏と連合して栖本を攻撃した。
 その後、相良氏の援軍が到着したが、上津浦氏の攻勢は続いた。しかし、天草氏が相良氏との和解に応じたため、翌年になると栖本氏の反撃が開始された。これに天草氏も加担したため、戦いは膠着状態となった。やがて上津浦氏の栖本攻撃が再開され、栖本氏は天草氏と結んでこれを迎かえ撃った。
 戦いはおおむね上津浦氏の優勢であったが、永禄三年になると有馬氏が天草への進出を企図して、上津浦氏に圧力を加えてきた。その後も、戦いは繰り返されたが、永禄七年ごろになってようやく和議の気運が盛り上がり、同九年にいたって三十年にわたった上津浦氏と栖本氏の抗争に終止符が打たれた。

戦国時代の終焉

 戦国時代中ごろになると、天草諸領主のうち長島氏、宮地氏らが姿を消し、栖本・上津浦・大矢野・天草・志岐の五氏が天草郡を分割して天草五人衆と呼ばれた。また、このころの九州は大友氏、島津氏、龍造寺氏が鼎立する状態にあり、三者を中心に九州の諸領主は集合離散を繰り返した。
 天正六年、大友氏を日向に破った島津氏が肥後に侵攻してくると、天草諸氏は島津氏に属するようになった。同九年には相良義陽も島津氏に屈服し、響ヶ原の合戦で討死した。一方、龍造寺隆信が天草に侵攻し、志岐麟泉以下の天草諸氏は龍造寺氏に降った。天正十二年、島津氏は有馬氏と連合して龍造寺軍と戦い、隆信を討ち取る勝利をえた。以後、天草衆は島津氏の配下に組み込まれ、島津氏の九州統一戦に加わり、豊後に出陣した。
 ところが天正十四年、豊臣秀吉の九州征伐が開始され、翌十五年に島津氏は秀吉に屈服した。この間、上津浦氏ら天草諸氏は秀吉に拝謁し、島津軍の討伐に加わった。戦後、本領を安堵され、新たに肥後の領主として入部してきた佐々成政に属した。その後、肥後国人一揆が起こり、乱は制圧されたが成政は責任を問われて自害した。そのあとの肥後は二分されて、北部を加藤清正が、南部を小西行長が与えられ、天草五人衆は小西行長の与力とされた。
 翌天正十七年、宇土城普請に着手した小西行長は天草五人衆に夫役を課したが、これに志岐麟泉が反発して志岐城に立て籠った。上津浦種貞ら他の天草衆は、はじめ静観していたが、やがて志岐氏に加担して小西行長、加藤清正らと戦った。戦いは激戦となったが、天草衆の敗戦に終わり、志岐氏は国外に逃亡し、上津浦氏らは本領を没収されたうえで改めて小西氏の家臣に組み込まれた。
 ここにおいて、天草の戦国時代は終焉を迎えたといえよう。その後、細川家の『切支丹転書物之事』という史料の中に、上津浦六左衛門の名が見える。上津浦氏は、大矢野氏、栖本氏らと同様に細川氏に召し抱えられたのであろう。・2005年5月8日

参考資料:本渡市史/苓北町史/天草郡史料/天草の歴史 ほか】

■天草五人衆: 天草氏/ 志岐氏/ 大矢野氏/ 栖本氏/ 上津浦氏


■参考略系図


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