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古志氏
花輪違/四つ目結*
(宇多源氏佐々木氏族)
花輪違は出雲佐々木氏の代表紋。 四つ目結の可能性も考えられる。


 古志氏の祖は、出雲守護佐々木泰清の第九子で、出雲国神門郡の地頭佐々木義信である。鎌倉時代、出雲・隠岐の守護は佐々木義清の子孫が受け継ぎ、これは南北朝初期の塩冶高貞まで続いた。義清の子が泰清で、古志氏は出雲佐々木氏の一族であった。
 義信は古志郷地頭として封じられ、地名をとって古志と改姓し、建長七年(1255)に浄土寺山に城を構えた。義信の父は前記のように出雲・隠岐守護の泰清だが、建長元年(1249)の「杵築神社遷宮式注進状」に、守護隠岐二郎三衛門尉泰清とその名を署名している。これから推して、義信が古志地頭に封じられたのは鎌倉時代の中頃、建長年間(1249〜55)とみて疑いない。
以来、古志氏は古志郷を中心に繁栄して、戦国時代の重信が元亀元年(1570)毛利の軍門に降りその配下となり、関ヶ原の戦の後に、古志を去るまで連綿と続いた。
 義信には、嫡子の孫次郎左衛門尉宗信のほかに、小山地頭で三木氏の祖となった宗秀、保知石氏の祖となった貞信、坪内氏の祖となった信清らがいて、それぞれ一家を作している。

中世争乱と古志氏

 義信の孫高雅は元弘・建武年間(1331〜35)に、居城を浄土寺城から栗栖山城に移し、その子義綱は隠岐山田別府・美作綾部郷・近江佐々木庄伏松を所領とした。さらに、足利氏に謀叛を起こそうとして誅殺された、出雲守護塩冶高貞の旧領地の塩冶郷も所領とした。そして、塩冶郷のうち一町歩を出雲大社に寄進、その寄進状には「遠江守源朝臣義綱」と署名しているのが確認できる。
 塩冶氏の没落後、出雲の守護は京極高氏が任じられ、守護代として吉田厳覚を派遣していた。時代は南北朝の内乱期であり、隣の伯耆国では山名時氏が勢力を強め、尊氏と弟の直義が対立した「観応の擾乱」に時氏は直義方として活躍した。その後、尊氏が擾乱を制して直義が謀殺されると、直義党であった時氏は新たな選択を迫られた。それは、尊氏党に復帰するか、南朝に接近するか、それとも直義の養子である直冬党と通じるかの三択であった。
 情勢は幕府内の抗争もあって南朝方が優勢であり、将軍義詮は京都を追われ近江に走るということもあった、義詮はすぐさま反撃して京都を回復し南朝方に対して攻勢に出た。この時点で、伯耆にあった時氏は、嫡子師義に兵をつけて義詮軍に参加させた。師義は輝かしい戦功をあげ、その賞として若狭国今富の地を元の如く宛行ってくれるよう、京極高氏に義詮への仲介を頼んだ。しかし、高氏は多忙を理由に師義の頼みを取りあわなかった。
 これに怒った師義は伯耆へ帰国し、これを聞いた時氏も憤激して、高氏が守護職をもつ出雲に攻め入り、守護代吉田氏を追放し、かわりに富田秀貞を守護代に任じたという。 (注1)
 かくして、山名氏は伯耆・因幡・出雲・隠岐を制圧(守護職を得たということではない)し、強大な勢力となった。勢いに乗じた時氏父子は、南朝方に呼応して京都へ攻め上り、義詮や高氏を敗走させ京都を占領した。

戦国時代の予兆

 その後、伯耆に帰国した山名氏は、直冬と結ぶようになった。これによって直冬党の勢力は飛躍的に増大し、文和四年(1355)、直冬は待望の入京を果たした。しかし、直冬の京都制圧は長続きせず、やがて、尊氏軍の反撃にあって敗れた直冬は安芸に逃れた。ここに至って、直冬を強力に支援してきた山名氏は軌道修正を迫られることになる。
 そして貞治二年(1363)、山名時氏は幕府に帰参した。とはいえ、これは降ったというよりも幕府の誘引に応じたものであった。そして、征圧化においていた丹波・伯耆・丹後・因幡・美作の守護職を安堵され、その支配を実質化したのである。さらに、一族から幕府の重職につく者も多かった。その後、出雲・隠岐・備後の守護職も獲得し、山名氏は一族で十一ケ国の守護を有する最大の守護大名に成長した。
 「充つればやがて欠く」といわれるように、強勢を誇った山名氏に対して将軍足利義満は内部撹乱を図り、巧みに勢力の削減をねらった。義満の策によって山名氏は分裂を起こし、やがて山名満幸の反乱へと事態は推移していく。そして、明徳二年(1391)満幸は一族の氏清・義理らを誘って兵を挙げ京都に迫った(明徳の乱)。このとき、満幸が率いたのは出雲・隠岐・伯耆・丹後の兵で、このなかには古志義綱も参加していた。
 戦いは京都北西の内野で展開され、山名軍は敗北し氏清は戦死し満幸は山陰道へ敗走した。乱後、山名氏の領国は十一ケ国から但馬・因幡・伯耆の三国に削減され、勢力は大きく後退した。
 義綱のあと古志氏は、信綱−氏信と続き、氏信の妹は出雲大社国造千家直信に嫁いだことが系図から知られる。 氏信の子は久信で美作守を称した。その子備前守為信は、応仁元年(1467)、神門郡稲瀬頼庄安原を日御埼神社に 寄進している。また為信は、永正九年(1512)備後国松永郷に侵攻し大内軍と戦った。この背後には、乱世を利して 勢力拡大を目論む尼子経久がいたことは間違いないく、系図にも為信が経久の部将として活躍したことが記されている。

戦国期の古志氏

 為信の子宗信は因幡守・左京亮を称し、比布智神社「歌仙三十六枚」に天文六年(1537)古志宗信寄進と裏書きがあり、天文二十四年(1555)同神社の棟札に「古志因幡守宗信造立」とある。その子吉信は天文九年(1540)近江国竹生島明神遷宮に際して寄付奉納をした。この吉信、次の豊信、そして重信の三代のころが、まさに乱世が終熄に向かっていこうとする渾沌の時代であった。
 このころの中国地方は、出雲の尼子氏、周防の大内氏が二大勢力であり、安芸・備後・石見の各地で、両勢力の戦いが繰り返されていた。そのようななかで尼子方から大内方に転じた毛利元就が台頭し、尼子方との攻防を続けた。やがて、大内義隆が重臣の陶晴賢に殺害され、その晴賢も毛利元就と厳島で戦って敗北、討ち取られてしまった。かくして、毛利元就が中国地方の覇者に躍り出てきたのである。
 毛利氏は永年の宿敵である尼子氏に攻勢をかけ、毛利氏は尼子氏の本城である富田月山城をはじめ、白鹿城、末次城などを攻撃、毛利氏と尼子氏の間でさまざまな争奪戦が展開された。この間、豊信は尼子晴久に属して、永禄元年(1558)毛利元就の軍と石見東部で戦った。しかし、戦況は次第に尼子氏の劣勢に推移していった。そのようななかの永禄三年、尼子氏の当主晴久が死去し若い義久が家督を相続した。
 尼子氏は毛利氏の攻勢をよく防いだが、永禄九年に至って、ついに富田城を開城、降伏した。尼子義久ら三兄弟は杵築を経て安芸長田に護送、幽閉され、戦国大名尼子氏は没落した。

戦国時代の終焉

 戦国大名尼子家中における古志氏としては、『竹生島奉賀帖』に古志左京亮・古志六郎左衛門の名があり、『尼子分限帳』には、足軽大将として「古志玄蕃頭、出雲之内四千三百七十二石」と記されている。
 戦国時代における古志氏最後の当主は重信で、『出雲佐々木古志系図』によれば、重信は「若年の時一族と快よからず、故に上洛し将軍義昭の近習となり、六条合戦の時、一日の中に七度功名、首をとること七つ、即ち公方御感状を下さる也、この外一代の功名計るべからず。その後公方の御供をして備後の鞆へ下り、それより雲州へ立帰り、本領安堵を受けて毛利元就に属し、高麗征伐の時もまた軍忠抜群也。」とある。
 また、別の本には、古志因幡守重信は尼子氏に属していたが、永禄年中、一時毛利に降った。しかし、尼子再興軍あ起こるとそれに呼応し、元亀元年(1570)四月、土倉城を守り、吉川元春がこれを攻めたが守りが固く落とすことができなかった。周辺の尼子方の城は次々と落ちて土倉城が孤立したとき、姻戚の出雲大社両国造から降伏を勧められやむなく毛利に降ったとある。
 古志重信には左京亮勝信、伊勢千代などの男子のほかに、女子が数人おり、それぞれ千家宮内室、北島貞孝室、牛尾氏室へと嫁いでいる。また、古志氏は代々千家・北島・小野・藤間など、出雲の名流と姻戚関係を結んでいた。これは、勢力(家)を維持するために不可欠な策であったことはいうまでもないが、出雲における古志氏の家格がどのようなものであったかを示している。。
 古志氏は毛利氏に降ってからは、「文禄の役」に際して輝元に従って出陣、渡海した。慶長五年(1600)の「関ヶ原の役」には毛利氏に従って西軍となり、戦後、毛利氏が防長に削封されたとき、武士を捨てて帰農したと伝えられている。また、戦国後期における古志氏の場合、備後守護山名氏に従って備後に移った古志氏の活動が知られ、出雲・備後における動向が微妙に錯綜しているようだ。
・注1:「太平記」にみえるが、京極氏は尊氏派であり、山名氏は直義派であったことから、師義が京極高氏にとりなしを依頼したとは考えにくい。

●備後古志氏


■参考略系図
    


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