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笠間氏
藤巴/三つ巴
(藤原北家宇都宮氏流)


 笠間氏は宇都宮氏の支流塩谷氏から分かれた。現在の笠間市の佐白山は中世、信仰の山で修験者や僧坊が多かった。その北方にある布引山にも三百坊があり、佐白山との間で紛争が絶えなかった。しかし、布引山の方の勢力が強く、圧倒された佐白山本坊の生田坊は、領主である宇都宮氏に救援を要請した。ときの宇都宮城主である宇都宮頼綱は、塩谷時朝を大将とする救援軍を派遣した。時朝は頼綱の弟塩谷朝業の二男で甥でもあった。
 そのころ、鎌倉では比企能員の乱があり、将軍頼家を修善寺に幽閉した北条時政が執権となり、権勢を振るうようになっていた。時政は幽閉した頼家を殺害し、実朝を将軍に立て、元久二年(1205)には畠山重忠父子を殺害し、さらに、実朝も殺害せんとして失敗、嫡男の義時が執権に就くなど鎌倉幕府の政局はきわめて混乱していた。
 塩谷時朝が兵を率いて笠間に乗り込んだのは、元久二年といわれ、布引山勢を討伐するとともに佐白山の坊舎も破壊して、そこに自分の居城を築いた。このとき、時朝は十五歳であったといい、以後、佐白山に宇都宮明神を勧進するなどして、城郭を整備していった。塩谷氏宗家は兄の親朝が継ぎ、時朝は笠間を名字とした。かくして、新治郡東部百四十町を領有して、鎌倉府に出仕する北関東の豪族、笠間氏が誕生したのである。
 時朝は文化の興隆に力を注ぎ、伯父の蓮生法師(頼綱)や父の信生法師などの影響もあって仏教振興にも意を尽くした。笠間六体仏(国の重要文化財)や三十三間堂の脇仏、千手観音像二体を寄進するなど宗教人であったことが知られている。時朝は通称孫三郎といい、孫三郎はその後代々の笠間氏の通称となった。二代景朝、三代盛朝はともに鎌倉御家人となり、四代朝貞は鳳台院・金剛寺を再建したことが知られる。

室町期の笠間氏

 笠間氏は戦国末期に綱家のとき、秀吉の小田原攻めに遭遇し後北条氏に近かったことから滅亡した。そのため、系図や史料が失われて、笠間氏の歴史は断片的な史料から知られるばかりとなってしまった。結果、笠間氏の代々は嫡子相続であったのか、あるいは養子相続があったのかも詳らかではない。
 五代泰朝の時代に鎌倉幕府が滅亡し、泰朝は、小田・伊佐・下妻・関氏らとともに南朝方に属して北畠顕家とともに鎌倉に戦った。しかし、笠間城を北朝方佐竹氏の一族の小瀬義春に攻められ、結局、足利尊氏に降服した。そのとき、笠間領は佐竹氏に侵略されたが、泰朝の子将朝は父が尊氏に属したことをもって幕府に所領返還を嘆願した。そして、子の家朝のとき、将軍足利義満から笠間十二郷の地頭職一円の安堵を得ることができた。
 その後、室町時代における笠間氏の動向は明確ではないが、笠間を領して時代の流れに身を処していたものと想像される。十一代綱久は三所明神社殿を再建し、十二代綱親・十三代綱広は蓮台寺に不動料を寄進している。
 そして、十四代高広は佐白山宝塔新築のため長福寺に如意輪観音像を寄進した。また高広は天文十八年(1549)、宇都宮尚綱に従って那須高資と早乙女坂に戦った。この戦いは、圧倒的な軍勢を有する宇都宮勢が有利であったが、総大将の尚綱が矢にあたって戦死したことで宇都宮軍の大敗に終わった。敗戦のなかで、笠間氏の重臣満川民部大輔が討死している。つぎの十五代広直は佐白山宝塔第二層を寄進するなど、時朝以来の笠間氏代々は信仰心の篤かったことが知られる。

戦国争乱と笠間氏の終焉

 戦国後期の当主長門守幹綱は、朝綱、あるいは朝経とも記されるが、宇都宮氏に属して三千貫を領していた。幹綱は天正十一年(1583)、下野の益子重綱と戦って益子勢を撃破している。笠間氏と益子氏はもともと宇都宮氏の配下だったが、笠間領と益子領は隣接していることから紛争が絶えなかった。加えて、このころ宇都宮氏の当主であった国綱は幼少であったため、重臣芳賀氏が後見して家政を執っていた。これに対して益子氏は不満をもち、ついに重恩ある宇都宮氏を叛いたのだという。
 援護を求めてきた重綱を庇護することで宇都宮氏の家中分裂を画策した結城晴朝は、加藤大隈守父子を大将に益子重綱への援兵を派遣した。笠間幹綱はこれを迎え撃ったが、将の谷中玄蕃允を討ち取られる敗戦を被った。
 笠間氏は益子氏に対して弔い合戦の作戦を立て、谷中玄蕃允の一周忌を期して、玄蕃允の嫡男孫八郎を先陣に、家老の江戸美濃守を後楯とした益子討伐軍を出陣させた。討伐軍は、益子方の要害富谷城を一気に乗っ取る計略を立て、城に近付いた。一方、富谷城からは五〜六百人の兵が出動した。これに対して、孫八郎軍は一斉攻撃を行い、浮き足立った益子勢を散々に打ち破り、弔い合戦は大勝利に終わった。「益子系図」によれば、この合戦で益子重綱が捕らえられたようにも記されている。
 益子勢が敗れたことを知った結城晴朝は、家老で下館城主水谷勝敏に命じて笠間氏を攻撃させたことが「磯辺由緒書」にみえている。また、「宇都宮文書」によれば、宇都宮国綱が益子氏を攻めて滅ぼしたともある。  幹綱のあとは、子の綱家が継いだ。綱家は天正十七年(1589)小野崎照通に通じ佐竹義宣に反抗しようとしたが、失敗に終わっている。このようにして、宇都宮氏を保護している佐竹氏に抵抗し、結城氏とも不和の情勢にあって笠間氏は次第に孤立していった。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉は、小田原の北条氏征伐にあたって、関東の諸将に出陣するように命じた。宇都宮国綱は下野・常陸の一門・支城に対して小田原に参陣するように命じた。このとき笠間氏は、本家宇都宮氏の命に反したため、国綱に攻められて城を失い「綱家箱田ニ逃ゲ匿レテ、其ノ終ル所ヲ詳ニセズ」とあるように、鎌倉時代から続いた笠間氏は滅亡した。

笠間氏異聞

 ところで、天正十九年五月記の「小田原陣の控」には、秀吉の命を受けた宇都宮一門・支城の小田原参陣の様子が詳しく書かれている。そのなかの一門連名調書の初めに、「常陸国東郡笠間城主、水色三巴藤、四百八拾九丁余、笠間左衛門尉時広」とある。そして、笠間の家来として、笠間・岩瀬地方の土豪十六名が連記されている。さらに、宇都宮一門とその家臣名の連記が続き、その後に、「常陸国笠間郡稲田住、水色三宝珠左巴の藤、三百二十一貫文、稲田新九郎頼国」とある。
 そして、この史料の最後に、小田原出陣の際の笠間氏・稲田氏のことについて、「-前略-笠間幹綱(一説に綱家)は本家宇都宮氏に対し、反逆の様子を見せたので、宇都宮氏は笠間氏を攻め、片庭村の古山へ逃れた幹綱を滅ぼした。幹綱の父時広は老年のため、小田原へ参陣することはできない。そこで、稲田頼国が笠間の軍勢をまとめて、下野小山宿で宇都宮の本隊と合流し、小田原へ参陣するように」と書いてある。
 小田原陣中において、秀吉に進上した目録をみると、宇都宮一門中に、笠間、毛馬一匹とあるので、稲田氏が笠間氏に代わって小田原参陣したのだと思われる。いずれにしろ綱家(あるいは幹綱)の死によって笠原氏が滅亡したことに変わりはないだろう。

参考資料:笠間町史/史跡めぐり栃木の城  ほか】

●宇都宮氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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