ヘッダイメージ



出羽氏
二つ引両/六角に七つ星*
(大伴家持後裔)
*富永様から情報をいただきました。


 出羽氏は「いずは・いずわ」と訓み、本氏は富永氏である。富永氏は伴姓で、道臣命の後裔大伴家持より出るという。とはいえ、富永系図の義祐以前については、家持の後裔であることを表わすものに過ぎず、その出自は不詳としかいいようがない。
 治承四年(1180)源頼朝が挙兵すると、近江国でもその挙兵に応じて、近江源氏の一族木山義経、その弟柏木義兼らが反平家の旗色を明かにした。このとき、近江国三上庄の荘官富永祐純もこれに同調した。こお挙兵は平家によって平定され、祐純は石見国邑智郡久永荘に流罪に処された。
 文治元年(1185)三月、平家は壇の浦で滅亡し、源氏の天下となった。そして、祐純の流罪地石見国守護として佐々木定綱が補任された。このことは、祐純にとって有利な材料となり、祐純は定綱によって久永庄および出羽郷の地頭職に取り立てられたようである。かくて祐純は地頭として、瑞穂・石見両郷の支配にあたることになり、その勢力を伸長していった。
 貞応二年(1223)、祐純の跡を継いだ朝助は二つ山城を築いて本城とした。ところが、寛元二年(1244)朝助は長門国尼ケ瀬に出陣し討死した。この長門出陣はどのような目的をもっていたのかは不明である。ただ、このころ高麗の浸寇がり、また西海方面に凶徒の蜂起があり、さらに対馬の事件など出兵の必要があり、朝助の出陣もこれらの事件と関わったものであろう。
 富永氏はやがて、自らの所在地をもって出羽氏を称するようになった。しかし、出羽氏は正平十六年(1361)二つ山城落城のときに文書を焼いてしまった。これにより、三代政助から十七代実清までの事蹟は失われてしまった。そして、この間の系譜も世代数が曖昧となり、兄弟などが雑多に混入されたと思われるところもあるなど、いつごろ誰がどのよなことをしたのかは明確にすることはできない。
 当時の出羽氏の領地についても明確にすることはできない。そして、出羽氏が寄っていた石見国に元寇の役後、布施村之郷に小笠原氏、川本方面に益田氏、津和野に吉見氏らが拠点を築き、さらに吉川氏、越生氏。佐波氏らも進出し、それぞれ勢力を拡大していった。出羽氏では実保のころで、時代の変化が出羽氏を取り巻き出したのである。

南北朝期の動向

 元弘三年(1333)隠岐を脱出した後醍醐天皇は、伯耆国船上山に遷座、中国地方の諸武士の綸旨を発した。佐波・三隅・土居氏らはこれに応じたが、益田・出羽の両氏は動かなかったようである。
 建武の新政がなり、やがて、足利尊氏が叛すると、益田・小笠原・吉見・出羽氏らは尊氏方に属した。そして、延元二年(1337)石見守護となた上野頼兼は、安芸の武田・吉川、長門の厚東、石見の小笠原・出羽氏らと連合して、宮方の三隅が拠る高城にせまった。しかし、宮方は各地に頼兼軍を撃破した。以後も、石見国では宮方と武家方が小競り合いを続け、互いに相手方に徹底的な打撃を与えることができず、やがて膠着状態となった。当時、出羽氏は二つ山に実清が居城し、君谷の地頭所城に子の実祐がいた。
 実祐の子祐忠は正平元年(1346)から同五年ころまで在京していたようで、高師泰が石見入りしたときにこれに従って帰国したらしい。正平五年八月、高師泰軍は佐波顕連の拠る鼓ケ崎を襲撃し、顕連は討死、城は落城した。師泰は小笠原・出羽・吉川氏らの勢力を加えて三隅城へ向かった。三隅城の攻囲戦は翌年正月尊氏が師泰を呼び戻すまで続けられたが、結局、三隅城は落ちなかった。その後、上野頼兼が戦死し、荒川詮頼が石見守護に任じられ、詮頼は武家方の勢力拡大に努力したが、このころ明確に武家方であったのは小笠原氏と出羽氏位であった。出羽氏は小笠原氏とともに終始荒川詮頼を援けて石見の武家方として活躍した。
 このころ、高師直の配下として終始忠節を尽くしながら師直の失脚、それに続く死によって勲功も認められず、備中の高梁から山陰の僻地邑智郡の阿須那に転封された高橋氏があった。高梁氏は足利直冬の勧誘に応じ宮方に転向し、出羽氏の支配する田園地帯を望んだ。また、佐波氏も出羽氏の領内にある君谷の湊からあがる交易の収入を望んだ。
 康安元年(正平十六・1361)高梁師光・貞光父子は直冬の指令に応じて出羽に進撃、出羽実祐はこれを迎かえ撃った。出羽攻防戦はそれより半年続けられた。同年の九月、高橋氏は守護荒川詮頼、小笠原長義らの応援するのを抑えて、ついに出羽勢を永明寺の城郭内に追い込み、火を放って全山焼き尽くした。実祐は猛火のなかで討死した。そして家に伝わる重宝・文書類も灰塵に帰した。このとき、祐忠は君谷にいて佐波氏の侵攻を排除してその領地を確保した。以後、君谷が出羽氏の根拠地となった。
 以後、出羽氏の失地回復運動は、荒川詮頼の守護時代、大内義弘の守護時代を通じて執拗に行われた。そして、明徳三年(1392)義弘の調停によって、高橋・出羽両氏の地頭職をめぐっての紛争も終わりを告げた。出羽七百貫のうち、高橋氏から二百五十貫を返還させ、出羽氏を出羽の宇山に居城させることで両氏の和睦がなったのであった。

戦国乱世

 出羽氏は毛利氏の台頭にともない急速に毛利氏に接近していった。高橋氏に奪われた出羽郷の奪回を毛利氏に期待し、その返還を条件に毛利氏に与したのである。そして亨禄二年(1529)、祐盛のとき、高橋興光賀が毛利氏に滅ぼされると、毛利氏より出羽四百五十貫を還補された。
 亨禄四年、祐盛は毛利氏の与力となることを誓約する起請文を提出した。そして、天文十一年(1542)にも高橋氏遺領のうちから石見雪田村を元就より宛行われている。
 祐盛の跡は嫡子元祐が継いだ。元祐は天文十八年(1549)四月、大内義隆より家督相続を安堵された。義隆滅亡後は元就に属し、天文二十三年十月、安芸黒瀬で蜂起した陶方の兵を誅伐したのをはじめ、厳島合戦にも毛利方として参陣した。
 弘治三年(1557)毛利元就は安芸国人十一人と盟約を結んだが、そのなかに出羽元祐が石見国人でありながら加わっていることは注目される。
 元祐は、弘治年間に、安芸佐東五十貫、東西条に百貫、永禄三年(1560)には石見国高見村七十貫、山南五十五貫を宛行われたほか、同七年にも石見国矢上五百貫を宛行われた。この加増から、毛利家中における元祐の活躍がしのばれるのである。また、文禄三年(1594)輝元から下野守の受領を授けられた。そして、慶長六年六月、八十余歳で元祐は死去した。
 ところで、元祐は嗣子として元就の六男元倶を迎えている。しかし、元倶は十七歳で早世したことから、元祐の実子元勝が嗣子となった。元勝は秀吉から豊臣の姓を賜り従五位下出雲守に叙任された。関ヶ原の合戦で毛利氏が萩に転封されたとき、出羽氏もこれに従い、江戸時代は萩藩大組の一として存続した。


■参考略系図
『萩藩諸家系図』から
    


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧