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大祝氏
折敷の内三の字
(越智姓河野氏支流)


 鎌倉時代の末期に起こった「元弘の変」に際して、伊予国で皇室側に呼応したのは、土居通増・得能通綱・怱那重清・祝安親らであった。そして、河野・新居氏の支族井門・高市氏らも討幕の挙に加わった。
 当時の伊予国における幕府方、皇室側にとって、最も注目されたのは長門探題北条時直の存在であった。北条氏は承久の乱後、京都に六波羅探題を設置して、近畿および西国を警備するとともに、さらに元冦の乱以来長府に長門探題を、博多に鎮西探題を設置して、各地域の統治と瀬戸内海の制圧につとめた。時直は伊予の反幕軍の蜂起に驚き、一挙にこれを撃破せんとして、みずから伊予路に侵入することになった。
 そこで、反幕府側でも長門探題の来襲を予想して、土居・怱那氏らは作戦を練り、軍勢を喜多郡から越智郡方面に転進させた。これは、越智郡府中城に守護宇都宮貞宗がおり、長門探題軍がこれと連携する可能性があったためだろう。土居・怱那両氏にとっては、まず府中城を占領して両者の連合を阻止することが急務であったためでもあろう。そこで、府中城の攻撃がはじめられ、怱那重清・土居通増・祝安親らが戦闘に参加した。
 一方、時直は探題の兵を率いて、越智郡石井浜に上陸しようとして通増・安親らの要撃をうけて敗走した。石井浜の合戦の終了後、間もなく、怱那重清・同義範らは方向を転じて喜多郡に入り、土居・得能・祝氏らの軍と協力して、ふたたび宇都宮貞泰を根来城に攻撃した。そして、両軍の間に十一日間におよぶ激戦が展開された。結果、反幕軍は宇都宮氏を降し、この地域における重要な根拠地を完全に占領したのである。この戦いは『怱那家文書』および『三島家文書』のなかの祝安親軍忠状によって、三月の出来ごとであったことが確認されている。
●大三島神社本殿
 元弘の変で皇室方として活躍した祝(大祝)氏は、河野氏の一族で越智姓である。
 越智氏は饒速日命の子孫を称し、越智郡少領武男の孫玉興が越智郡大領となり、その子玉澄、そしてその子にあたるとされる安元が三島大社(大山祇神社)の初代大祝となったと伝える。ところで、大山積神社所蔵文書にある系図によれば、玉澄を玉興の弟としその子が安元であるとしている。玉澄は藤原広嗣の乱に際して、大野東人に従って乱の鎮圧に功があった。また、玉澄の孫広成は越智宿禰姓を与えられ、以後、伊予に分流が蟠踞し勢力を培った、ともいう。
 鎌倉時代の頃から宗家は祝(大祝)を家名とし、越智氏の氏神である大山祇神社の祠官を歴任した。そのうち大宮司の地位につき、同社の総支配にあたるものを大祝職とよんだ。祝氏は大三島を中心にして在地領主化して、島嶼部に隠然たる勢力を振るうようになった。
 安親は第十八代大祝職安俊の孫で、大祝にこそならなかったが、同族中で最もすぐれた政治的手腕に富んだ武将で、祝氏の名を高からしめたのであった。

戦国時代の大三島

 戦国時代になると、瀬戸内水軍の領袖的存在となり、神事に尽くしながらも兵馬のことにも携わるようになった。そして、大内氏の圧力が瀬戸内海の島々に迫ってくるようになったのである。大内氏が来攻してくると大祝はその来襲を一族の河野氏に注進し、河野氏は来島氏らとともに大内軍と戦った。
 大祝は祭職の身なので、戦場へは出ず、一族の者が陣代として三島城に拠り、河野氏の援軍と連合して大内軍と戦い、敵を撃退した。第一次大三島合戦のときの陣代は大祝安用の長男で十七歳の安舎であった。安舎はのちに大祝職を継ぎ、弟の安房が三島城の陣代となった。
 天文十年(1541)、大内氏の水将白井房胤と小原中務が軍勢を従えて大三島に攻めてきた。この激戦で、大三島水軍の陣代で出陣した安房が戦死した。安房の戦死後、大祝安舎に替わって大三島水軍の陣代となったのが大祝鶴姫であった。同年十月、重ねて来襲した大内軍の小原隆言を討ち取っている。
 天文十二年(1543)六月、大内義隆は陶晴賢の軍勢をもって、三度目の大三島攻撃を敢行した。過去二回の合戦に敗れている大内軍はあらゆる兵力を結集して三島水軍を攻めた。この戦いで鶴姫の右腕で恋人ともいわれる越智安成は秘術をつくして戦い、最後の手段として早船に乗り、敵の将船をめがけて突っ込んだ。そして安成は戦死した。
 鶴姫は、三島城に帰って軍将を集め、もう一度最後の攻撃を敢行することを告げた。そして、鶴姫は残った早船を引き連れて、台の浜を出撃した。大内軍の不意を突いた攻撃は見事に決まり、敵船は沈むもの、逃げるもの散々の態であった。しかし、三島水軍の損害も大きかった。すでに敵を追撃する余力もなかった。しかし、三島社は守り抜いたのであった。
 戦いの後、鶴姫は安成の後を追って、身を投げて死んだという。いまも、大三島神社に日本唯一の女性用鎧が伝わっており、それは鶴姫が着用したものだという。(左写真)
 その後、安舎は、大内氏の攻略にあい、大内氏配下に甘んじるようになった。やがて大内氏は陶晴賢の謀叛で滅び、その陶氏も毛利氏との戦いに敗れて滅亡した。大山祇神社は毛利氏ら戦国大名からの信仰を集め、江戸時代には参勤交代で江戸と松山を往復する藩主に対し、海陸道中安全祈願がしばしば行われた。そして、大祝家は近世になって三島姓を名乗り、いまも三島大祝家として続いている。


■参考略系図
    


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