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厳島神主家
●杏葉九曜
●藤原氏/中原氏
 


 厳島神社の神主家は、安芸国造家であった佐伯氏が世襲していた。平安末期に登場した佐伯景弘は、平氏一門の熱烈な尊崇を背景にして、その卓越した政治手腕を振るい神社に空前の盛運をもたらした。しかし、平氏の滅亡により後ろ楯を失った景弘は一時危機に追い込まれたが、たくみに源氏に取り入ってこの政変を乗り切り、鎌倉幕府成立後も神主職を一族間に伝えた。
 ところが、広範な西国勢力を巻き込んだ「承久の乱(1221)」に際して佐伯氏は宮方に通じたため、乱が京方敗北に終わると情勢は一変した。異姓の他人をもって任ずべからずとされていた神主職に、幕府御家人である藤原親実が補任されたのであった。

藤原姓神主の登場

 藤原親実は中原親能の養子となった者で、系図的には大友氏・門司氏と一族になる人物であった。親実が神主職に補任されたのは、承久の乱後ほどないころと思われる。以後、厳島神社の神主職は、伊都岐島(厳島)神社の祭祀権者であった平氏の佐伯一門に替わって、親実の子孫が世襲することとなった。
 親実の在任中の建永二年(1207)と貞応二年(1223)の二度にわたって、厳島神社は火災に見舞われ、親実は再建造営事業にあたった。幕府は厳島社殿の再建事業を促進するため、親実を安芸守護に任じている。他方、親実は神主就任当時より、幕府御所奉行の職にあったことから、神主として厳島神社に住することはなく、鎌倉において将軍に近侍していた。そのため、惣政所とよばれる代官を派遣して神社の統括にあたらせていた。
 親実のあとを継いだ親光も将軍に近侍しており、『吾妻鏡』にもその名が散見されるが、親実同様に神主として現地に在住することは少なかった。一方、親光の代になると、安芸右近大夫親継・安芸左近蔵人重親・安芸大炊助らの名が『吾妻鏡』に散見する。かれらは安芸を称し、神主の名乗り字「親」を用いていることから親光の近い一族かと思われる。惣領に代わって惣政所に関わりをもつ一族が、厳島神社と深いかかわりをもつようになったことをうかがわせる。
 そして、神主一族からは社領へ土着する者もあらわれ、寺原荘内宮庄地頭の周防氏、寺原荘の寺原氏、三田新荘の藤原氏などが、土着した一族として知られる。
 親光のあとは親定が継ぎ、『吾妻鏡』にも安芸掃部大夫としてみえている。ついで、親範が神主職を継承した。この親範の代に神主家発給文書が、神主袖判奉行人奉書=惣政所施行状形式としてみえはじめる。そして、以後、神主家発給文書が増大し形式も統一されたものとなる。このことは、神主の厳島神社内における地位の確立・強化、神主家支配機構の整備がなされたことを示している。


・厳島神社の神紋/厳島神社境内の各所に神紋が見られる。


中世の争乱

 やがて、鎌倉幕府に衰退の兆しがみえ、後醍醐天皇による討幕運動が展開されるようになる。この激動の時代に神主職にあったのは親顕で、親顕は正慶二年(元弘三年=1333)正月、六波羅より四天王寺に下向した。楠木正成を攻撃した幕府軍のなかにみえる厳島神主は、親顕であろう。幕府の滅亡によって建武新政がなったが尊氏の謀叛で新政は崩壊し、親顕は建武三年(1336)の小幡合戦で討死を遂げている。
 親顕の戦死により親直が神主職を継いだが、この親直は歴代神主のなかで豊富な事蹟をとどめており、この親直の代に厳島神主家は大きな転機を迎えた。北畠顕家軍と戦って敗れた尊氏は九州に落ち延びて再起を図り、東上の途上に厳島神社へ参詣し、造果保地頭職を造営領所として寄付した。この造果保の地頭職が、のちに神主家にトラブルをもたらすのである。
 文和三年(1354)、将軍義詮が造果保地頭職を小早川氏平に預け置いた。それを、神社側が訴えたため文延四年(1357)、神主代に下地が沙汰付けされた。このように朝令暮改が繰り返された結果、神主家と小早川氏との間で抗争が起った。応永年間(1394〜1427)になると、親直は大内氏の援護を得て、造果保に要害を築き小早川氏と合戦におよんだ。こうして、南北朝時代に幕府方として安芸国内に勢力を扶植してきた神主家は、大内氏と結び、その庇護を受けつつ国人領主としての道を歩み始めたのである。
 やがて、造果保に対する小早川氏の押領も停止し、神主職には親詮が就いた。親詮は応永四年(1397)、幕府の命によって大内満弘が少弐氏征伐に出陣したとき、それに従い豊前小倉で陣没している。つぎの親胤も大内氏との関係を保ち、応永四年の佐東郡内の所領をめぐる相論では大内義弘の支援で勝利を収めている。応永六年、大内義弘が幕府に反乱を起すと(応永の乱)、親胤は義弘に加担して堺に籠城した。堺落城後、義弘の弟弘茂らとともに投降し、その後、神主職に復して名乗りを親頼と改めている。応永十一年に安芸国人らが交した一揆契状には、親頼の名で署判している。

戦国争乱を生きる

 厳島神主家は、親頼の次の代に謎を残している。すなわち、系図などでは親景が継いでいるが、当時の記録には「安芸厳島神主季藤」という名が残され、親景の事蹟は神社文書などからは全く知られない。ちなみに、季藤は系図で親景のあとに記される親藤と同一人物と考えられる。
 親藤は大内持世の軍に加わって九州に出陣し、大友、少弐氏らと戦った。しかし、九州に在陣している隙に、社領を毛利氏、宍戸氏らに押領され、守護山名氏を介して回復につとめている。時代は、碓実に弱肉強食の戦国乱世に移行しつつあった。
 親藤のあとは教親が継いだが、教親は毛利氏一族の長屋氏から養子として入った人物であったようだ。毛利氏との養子縁組は、利害をともにする安芸の国人同士としての連帯感からもたらされたものであろう。そして、教親の代になると社領は周辺の国人領主による押領にさらされ、佐東郡など遠方の社領は不知行状態に陥っていた。神主家は社領を保持するため、侵食を繰り返す武田氏とは敵対関係になっていった。
 長禄元年(1457)、桜尾城主の佐伯親春が武田信賢と合戦に及び、親春は大内教弘に応援をたのみ、大内氏と武田氏の間で合戦となった。この親春とは、教親のことであろうとされている。
 教親は神主職を子息宗親に譲って隠退したが、その後も実権は掌握していたようだ。しかし、宗親は伯父長屋泰親の養子になっていたことから、やがて神主職は弟の興親が継いだ。そして、教親は従前のように永正元年(1504)まで、興親の後見をつとめている。この教親の代に「応仁の乱」が勃発した。十五世紀末に成立したという『見聞諸家紋』をみると、厳島神主の旗紋は「杏葉九曜」と記され、神主家が大内氏に属して在京していたことが知られる。

藤原系神主家の滅亡

 永正四年(1507)、大内義興はかねてより保護していた将軍義材を奉じて上洛し、翌五年七月に将軍職に復職させた。この陣に興親も従って京都に上ったが、同年暮れに病没してしまった。興親は子がなかったため、興親に従って上洛していた小方加賀守と友田上野介興藤との間で神主職をめぐる争いが起った。両者の抗争は国元にもおよび、神主家の家臣団でもある「神領衆」が両派に分かれて一触即発状態となった。さらに、神主家の内訌に乗じた武田元繁が神領へ打ち入り、厳島の島衆も両派の抗争に巻き込まれて争乱が繰り返された。
 一方、義興が京都に滞在している隙をねらって尼子氏が、安芸に進攻するなど勢力を拡大するようになった。国元の情勢を危惧した義興は、永正十五年、ついに陣をはらって帰国した。このとき、小方加賀守と友田上野介興藤もともに帰国し、神主職を競望した。これに対して、義興は神領を自らの支配下におさめ、己斐・石道・桜尾の諸城には城番を入れた。
 大永三年(1523)、友田興藤は武田光和らの合力を得て桜尾城へ入ると神主を称し、大内氏の城番を追い落とした。大内義興はただちに軍勢を送り、翌四年には義興みずから出陣して興藤を降参させた。そして、興藤の甥兼藤が神主に立てられたが、兼藤は享禄元年(1528)に病没してしまったため、興藤の弟広就が神主に据えられた。
 天文十年(1541)、大内氏の前に屈従を余儀なくされていた興藤が反旗を翻した。しかし、大内氏の攻撃を受けた興藤は進退に窮し、ついに桜尾城において自害した。五日市城に逃れた広就も自害したため、藤原系神主家はまったく滅亡ということになった。
 興藤が滅亡したのち、大内氏は神主家一族の小方加賀守の娘を室としている杉隆真を神主に据え、さらに、神領衆にも所領を安堵した。しかし、新神主の地位は名目的なものであり、実際の支配にあたったのは桜尾城に駐留した大内氏の重臣鷲頭氏であり神領衆らであった。
 この体制は、陶晴賢が大内義隆を殺害して大内氏の実権を掌握したのちも変らず、神領衆は陶氏の支配下に組織された。そして、厳島の合戦において、神領衆は陶派と毛利派に分かれ、宍戸・野坂・栗栖・大野氏らの陶派は滅亡し、己斐・新里・糸賀氏らは毛利氏家臣となった。ここにおいて、厳島神社の戦国時代は終わったといえよう。その後の厳島神社祭祀職は、佐伯氏が世襲して現代に至っている。・2005年3月17日
・厳島神社:ユネスコ世界遺産に登録されている。

参考資料:広島県史 ほか】

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■参考略系図
    
●旧版系図


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