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出雲吉田氏
三つ洲浜
(宇多源氏佐々木氏流)


 出雲の戦国大名尼子氏に属した吉田氏は宇多源氏佐々木氏の流れである。すなわち、源頼朝の旗揚げに加わって活躍した佐々木定綱・高綱・経定・盛綱兄弟の弟にあたる厳秀が、出雲吉田村に住して吉田を称したことに始まる。厳秀は吉田六郎を称した。
 厳秀の四男、吉田四郎左衛門泰秀は吉田荘の地頭となった。承久の乱後の文永八年(1271)の出雲大社古文書に、吉田荘地頭、田積九十一丁二反佐々木四郎左衛門尉とあるのが、泰秀のことであろう。また、下吉田に八幡宮があるが、その起こりに関して、承久の乱のころに佐々木泰秀が、父の命で、後鳥羽院の隠岐遷幸に供奉せんとして邪魔され、ひそかに吉田の地に潜んで奪回の機を待っているうちに後鳥羽院が隠岐で崩御され事は挫折したことから、かつて賜っていた中啓を御神体にして吉田の地に一社を建立したのが、その起こりと伝えられている。
 吉田泰秀は、建治三年五月、七十八歳で没した。父の厳秀には多くの子があり、泰秀をはじめとして出雲・石見に一族が繁栄した。
 鎌倉時代、出雲守護は厳秀の兄義清の子孫が、塩冶を称して世襲したが、南北朝期の興国二年(1341)塩冶氏が没落したことから、出雲守護は佐々木京極家の高氏が補された。そして、その目代として吉田秀長(厳覚)が富田城に入った。ところが、正平七年(1352)山名氏が出雲に侵攻してきて、厳覚は富田城を遂われた。その後、山名氏も出雲を遂われ、出雲守護には改めて京極高詮が任じられ出雲に乗り込んできた。
 しかし、このころには吉田氏の主流は備後福山や、朝山村、京都などに分離しており、出雲には一部の者が残るばかりであった。そして、出雲に残った吉田氏のなかから、のちの尼子時代にその重臣となる者が出てくることになる。
 戦国時代、「竹生島奉賀帳」のなかに、吉田兵庫助の名があり、富田下城迄相届衆のなかに記名のもの「吉田八郎左衛門尉、勝久与生害、四郎次郎、同時死」とある。八郎左衛門尉は、永禄八年の富田合戦の御子守口主陣の第一線にもその名が見えており、富田城の最期まで節をまげずに尼子氏に尽くしている。その後の尼子再興戦に加わって布部山合戦そのたを転戦したが、元亀二年、秋上父子が毛利氏に降ったとき、八郎左衛門もその一味との讒言があり、それを信じた尼子勝久によって殺害された。
 八郎左衛門の弟、三郎左衛門も永禄八年の富田合戦に尼子義久本陣に参じ、尼子再興戦最期の拠点となった上月城の籠城戦にも加わった。そして、天正六年、毛利方の鉄砲にあたって討死した。一族の源四郎は毛利側に帰順し、杉原盛重の娘をもらって吉田肥前守元重を名乗り、尾高城に拠って吉田氏の子孫は残った。
 出雲吉田氏の家紋は、佐々木系図に「秀義−厳秀(吉田六郎、山法師、家紋 洲浜)」とある。また、『見聞諸家紋』にも「雲州佐々木 吉田」として三つ洲浜が収録されている。


■参考略系図
・本文中の八郎左衛門・三郎左衛門兄弟、肥前守元重らの名を見い出せない。
    


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