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上野氏
丸に二引両
(清和源氏足利氏流)


 上野氏は足利義氏の孫、上野律師義弁に始まる。義氏は十三世紀半ばごろの十数年間、三河守護に在任しているが、この間、一族を三河各地の地頭に配置し、勢力の扶植に努めたと思われる。その結果、吉良・一色・仁木・戸賀崎・上野などの在地領主を輩出した。
 八条院領上野荘において、義弁がどのような地頭領主制を展開したのか、まったく不明であるが、義弁-頼遠-頼兼と世代を経る過程で、着実に在地領主として成長していったものと考えられる。頼兼は足利一門衆として、尊氏の挙兵当初から参戦していたようで、建武三年(1336)三月、菊池武敏を攻めて、これを陥落せしめている。尊氏はその直後、太宰府を発して東上し、京都奪回を目ざした。この時、頼遠は石見守護に任じれれ、石見の宮方の討伐の任にあたった。
 その後、貞和五年(1349)までの十四年間、頼兼は石見守護として、石見国および長門・周防の一部における宮方勢の討伐に専念し、観応元年(1350)終わりごろ、丹波守護に転補された。しかし、観応の擾乱が起こるや、頼兼は足利直義方に与し、直義の北国下向に呼応したので、観応二年九月但馬において戦死した。
 室町時代中期、民部大輔信孝は将軍足利義植の近臣で、備中の国侍を将軍の身方に引き入れるため、二階堂政行や伊勢貞信らと備中に下った。

上野氏の活動と没落

 『中国兵乱記』によれば、「永正6年6月源義植、天下の国主を召され、年来の軍忠を揚げられ忠賞を行われる、累年の軍労を休息致され、向後は国主にすえ置かれ、国主の仕置を探題し、地頭の行跡上聞に達せられるべしと評定あり。その節、備中の国は雲州の塩治尼子の旗下も有り、四国の細川・三好の幕下も有り、播州の赤松旗下も有る故に国乱す。御近侍二階堂政行・上野民部大輔・伊勢左京亮備中へ差し越され、国侍を御身方に引き入れ候様にとの上意にて、上野民部大輔は下道郡下原郷鬼邑山に在城、伊勢左京亮貞信は小田郡江原村高越山に在城、二階堂政行は浅口郡片島に在城、近郷の地頭を冠職として在城、国中に制礼を立て貧民に財を扶助し貧者を愛し孤独を禁ず。これ故に国民親付する事父母の如し』とみえ、信孝は鬼邑山に在城していた。
 民部大輔信孝の子が兵部少輔頼久であり、父から松山城主に任じられる。南北朝期から秋庭氏が五代にわたって支配した大松山をはじめ、小松山の城を整備し、戦に備えたようである。頼久の業績として、安国寺再建があげられる。
 安国寺は、足利尊氏が後醍醐天皇を弔うと共に、足利氏天下統一の威信を誇示し、諸国に置いたものである。頼久が松山城に入城した当時はすっかり荒廃していたため、堂塔を修理し、寺田・寺林を寄進して再興したものであった。頼久が死去したとき、当時の住職は彼の功をたたえ、「頼久寺殿円翁道満大居士」の法名を贈り、子の伊豆守の希望もあって、天柱山安国頼久禅寺を寺号とした。

 
備中高梁を訪ねる

・高梁駅方面から城址を遠望 ・城館のような構えの天柱山安国頼久禅寺 
・頼久禅寺境内一角にある頼久の墓と三村一族の墓

 伊豆守は『備中誌』には、「大内氏旗下、後毛利氏に属す。頼久の子なり。天文2年庄為資が為に亡さる、西国太平記に云う。当国の守護を考えるに大松山の城主上野伊豆守」と記されている。弟に右衛門尉がいた。
 『中国太平記』によれば、「大松山には上野伊豆守居住して小松山の城には同右衛門尉を置かれける処に、天文2年猿掛の城主庄為資押し寄せて相戦う。庄は当国の旗頭たるにより、植木下野守秀長、庄に力を合わせ横谷より攻め掛け、上野の勢を追い崩し伊豆守を討ち取り、大松山を乗取る。小松山の上野右衛門尉も植木が一族若林二郎右衛門に討たれし」とある。
 大松山・小松山で合戦があり、備中上野氏は滅亡した。この合戦は歴史に残る松山城を中心として、初めて展開された戦国の合戦で、戦国時代に覇を競うこともなく、上野氏は二代約24年で滅んでしまったのであった。
 頼兼の二男とされる直兼は尊氏東上に際し、九州にとどまった。そして、直兼の孫氏繁は、三原郡に住して大友氏に仕え、爾来大友の家臣として在地に勢力を扶植した。しかし、鎮信のとき、主君に諌言して容れられず、天正十年(1582)、大友氏を去って筑後山本庄柳坂村において帰農し、代々庄屋職を勤めたという。

【主な参考資料:岡山県史・室町時代守護職事典 など】


■参考略系図

 


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