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新見氏
瓜に松葉菱*
(出自未詳、藤原氏か?)
*岡山の家紋」主催小林様からの情報では阿哲郡内で新見氏が「丸に立ち沢瀉」を使用しているとのことです。


 中世、備中国新見庄を本拠とし、同地方に勢力を持った国人で、承久の乱(1221)後、新見庄の新補地頭として補任され、土着したものと思われる。その出自などは不祥である。文正元年(1466)、「新見次郎三郎賢直申状写」によれば、承久の乱の勲功によって賢直の先祖資満が、貞応元年(1222)に地頭職を賜ったという。
 元弘三年(1333)、伯耆国船上山の後醍醐天皇方の軍に新見氏が加わったことが『太平記』に見える。14世紀前半には、領家職濫妨により東寺雑掌から、しばしな訴えられた九郎貞直がいる。この貞直が史料上、氏名の明らかな地頭新見氏の最初である。新見庄は鎌倉時代後期から領家方(東寺領)と地頭方に中分され、地頭方の政所は上市附近にあった。
 建武元年(1334)に建武新政を開始した後醍醐天皇は、新見庄の地頭職を新見氏から奪い、庄園領主の東寺へ寄付した。しかし、建武三年(1336)には、足利尊氏によって貞直へ地頭職が安堵された。翌四年から起こった庄の領家職を巡って壬生官務家のなかで起こった争議に貞直は参加し、一方の支援として観応三年(1352)ころまで庄内での濫妨をくり返したことが知られている。

美作国人、新見氏の動向

 その子とみられる清直も庄内で濫妨を働いたていた。また、清直は延文元年(1356)九月四日付の室町幕府引付頭人奉書に記された新見太郎左衛門尉と同一人か。室町幕府の奉行人飯尾為清の口入によって、明徳五年(1394)新見庄のうち、西方領家方全域の代官職を請け負った。しかし、年貢の未進が続いたので、応永七年(1400)に代官職を解任された。
 新見氏のなかで、戦国時代中期に出た国経が著名。国経は蔵人を称し、室町将軍家の有力者である細川政賢の口入により、明応十年(1501)から新見庄の西方・領家方の代官職を請け負い、実際の所務は一族の又三郎政直が執行した。そして、庄内の支配を通じて農民の被官化を図った。しかし、国経の支配に対立する多治部方は、永正十三年(1516)ころ庄内に乱入し合戦になった。この合戦により新見庄は完全に新見氏の支配下となった。
 翌十四年(1517)、備中の三村氏が新見庄に討ち入り、国経は山陰の尼子氏に援兵を得た。以後、尼子氏に属するようになったようで、天文二年(1533)には、尼子氏による美作国高田城攻撃に参加した。このころから官途名を備中守と称している。
 国経の子息が貞経で、永禄元年(1558)の所領目録によれば、新見庄地頭職・領家職、万寿庄下司・権田所職、小坂部郷、石蟹郷、神代郷の地頭職などが所領であった。 


■参考略系図
・新見市史に掲載されていた系図を紹介します。
    

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