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備中石川氏
飛び鶴
(清和源氏頼親流か?)
・『見聞諸家紋』から推察。石川氏が用いた 家紋をご存知の方ご教示ください。


 中世、備中国都窪郡にある幸山城は、鎌倉時代後期に庄左衛門四郎資房が築いたものといわれている。元弘の争乱に際して六波羅に馳せ参じた資房は、近江国番場で北条仲時とともに自刃して果てた。資房の子資氏は足利尊氏に属し、備中守護になった細川氏の被官となって守護代に任じられた。一方で細川氏は吉備津彦神社の社務代を勤める石川氏も守護代に登用した。
 のちに庄氏は小田郡に猿掛城を築いて移ったため、応永年間(1394-1428)ごろ、庄氏に代わって石川氏が幸山城主となった。以後、戦国時代末期まで石川氏代々が居住した。幸山城は北方に備中最大の穀倉地帯である賀陽デルタが広がり、西方は高梁川が流れ、旧山陽道を眼下に見下ろす要衝の地にあった。

その出自を探る

 石川氏は清和源氏の流れといい、初めから備中一ノ宮吉備津神社の社務代で、ともに源氏である細川氏から篤い信頼を受けていたようだ。そして、応永以降、戦国時代後期までの百五十年間にわたって勢力を保ち、備中半国の旗頭と仰がれる存在に成長した。石川氏には確かな系図が伝わっておらず、 残された記録などによれば石川豊後守から最後の当主久式まで八代続いたという。
 『姓氏家系大辞典』にみえる清和源氏石川氏は河内源氏の裔とあり、八幡太郎義家の子義時の子義基が、河内国石川郡石川荘を領して石川氏を称したのに始まるという。徳川氏に仕えて近世大名となった石川氏はこの流れと伝えている。一方、同じ清和源氏である奥州石川氏は大和守源頼親の三男頼遠の子有光を祖としている。「前九年の役」に際して源頼義に従って奥州に下向した有光は、陸奥国石川郡泉荘の支配を委ねられ、石川氏を称して土着したのだという。
 足利将軍義政のときに成立したという『見聞諸家紋』を見ると、「飛び鶴」が石川氏の紋として記録されている。 当時の備中守護細川勝久は、東軍の総帥である本家の細川勝元のもとに馳せ参じて在京していた。守護代の庄氏、 石川氏らも勝久に従って京に出陣していたとみられる。諸家紋には備中庄氏の紋として「三つ引両」が記録されており 、諸家紋の石川氏を備中石川氏とする確実な資料こそないが、「飛び鶴」は備中石川氏の紋と思われるのである。 ちなみに、義基流の石川氏は笹竜胆紋、鶴紋は頼親流石川氏が用いている。家紋だけで判断するのは危険だが、 備中石川氏の出自は頼親流に求められるのではなかろうか。

備中争乱

 備中の戦国時代は、京に在陣中の守護勝久の留守を狙った庄元資の反乱から始まった。そもそもの発端は守護被官の 石川左京進が京都相国寺領である川辺荘の代官職を望んで強引に入部、合戦沙汰となり左京進は戦死した。一方、守護代 庄元資は京兆被官の安富氏と合戦となり、ついには元資の反乱へと事態は動いたのである。元資と守護方の戦いは各所で 展開されたが、延徳四年(1492)、猿掛城を包囲された元資は出奔、反乱は鎮圧された。川辺荘に乱入した左京進は、 守護代石川氏の一族と思われる。
 一方、京の幕府では明応の政変(1493)で将軍義材(義稙)を逐った管領細川政元が権力を掌握した。ところが、養嗣子 問題で細川家中は二分され、永正四年(1507)、あろうことか政元は澄之派の手で暗殺されてしまった。対する澄元派に よって澄之は敗れ、細川宗家の家督は阿波細川氏から出た澄元が継承した。この細川氏の内訌を好機としたのが、 大内義興に庇護されていた前将軍義稙で、永正四年(1507)、将軍職復帰を目論んで上洛の陣を起こした。従う兵は防・ 長・豊・築の兵二万五千、『隠徳太平記』によれば、備中では細川伊勢・庄備中守為資・三村宗親・清水・伊達、 そして石川左衛門尉らが従った。以後、京では細川二流の乱が繰り返され、将軍権力は無力化、幕府体制は有名無実化していった。
 天文二年(1533)、庄為資は松山城主上野氏を攻め滅ぼすと松山城に本拠を移した。猿掛城には一族の実近を配し、 一躍、備中の一大勢力となった。これに対したのが成羽城主の三村家親で、天文二十二年、毛利氏の支援を得た家親 は松山城に攻め寄せた。しかし、勝敗が決せず、家親は長子元祐を実近の跡継ぎとして両者は和睦を結んだ。 永禄のはじめ(1560年ごろ)に為資が他界すると、家親は毛利氏と結んで松山城を攻撃、高資を降して城主となった。ここに備中全土を支配下においた三村家親は、美作・備前への進出を企図した。かくして、備前浦上氏の重臣として活躍する宇喜多直家と矛を交わすことになった。
 家親の勢いに恐れをなした直家は暗殺を企て浪人を雇い入れると、永禄九年(1566)の春、美作に出陣中の家親を 鉄砲で狙撃して殺害した。遺児の元親は直家に対する復讐戦の準備を進め、備中を固めると、翌永禄十年、宇喜多方の 明禅寺城を攻撃した。

三村氏と興亡をともにする

松山城  三村勢の戦意が高いことを察した直家は金光氏、中島氏らを内通させると、三村勢を思う壺へとたくみに誘い出した。一方、三村元親は、実兄の庄元祐の七千を前軍に、石川久智の五千を中軍に、そしてみずからは八千を従えて出陣した。
 三村勢を迎え撃つ直家は五千の兵を五段に分けて、陣を布いた。二万対五千、数の上では三村方が圧倒的に優勢で あったが、結果は三村方の散々な敗北となった。元親は元祐を失い、残った兵をまとめて松山城に逃げ帰った。以後、 三村氏は衰亡の一途をたどることになる。この合戦で久智も傷を負い、のちにその傷がもとで他界している。
 久智のあとを継いだ久式は元親の妹婿で、毛利氏に通じて三村氏とともに宇喜多氏と対峙した。元亀元年(1570)、 宇喜多直家は備中に兵を入れると石川領を劫掠した。一方で出雲の尼子氏が南下策を進めるようになり、毛利氏も東上策を進め、備中は両者の攻防の舞台となっていった。当然、石川氏の拠る幸山城も風雲急を告げていた。
 元亀二年、尼子氏は備北に侵攻、諸城を制圧すると備中に攻め入り、細川氏を攻め高橋氏を降すと幸山城を攻撃した。そのとき、城主の久式は毛利氏に従って九州に出陣中で、留守を守っていた城代の禰屋氏らは尼子方に屈服してしまった。居城を失った久式は毛利氏の援助をえて、尼子方から奪還した。
 ところが、宇喜多直家と毛利氏との間で和睦が成立、直家を親の敵と狙う三村元親は困却した。直家は元親にとって 不倶戴天の仇であり、それを知る毛利氏が直家と結んだことは許せないことでもあったようだ。 毛利と断つことを決意した元親は、織田信長に通じると毛利氏から離反した。天正二年(1574)、毛利氏は備中に出兵すると三村方の属城を次々と落とし、松山城を攻囲した。攻防戦は半年にわたって続いたが天正三年五月松山城は落城、元親は自害して三村氏は滅亡した。 この戦いに際して石川久式は義兄元親に味方して三百騎を援軍として送ったが、松山城は落ち、 久式も毛利氏に追い詰められて自刃した。ここに、備中石川氏は滅亡、代々の居城であった幸山城には 毛利氏に味方した清水宗治が入城した。
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写真:三村氏が拠った備中松山城址を遠望

余談

 ところで、清水宗治は石川氏の一族で高松城主の石川左衛門佐久孝に仕え、久孝の娘婿であったという。 男子のなかった久孝は須々木氏から養子を迎えたのち病没、ところが養子の筑前守も早世したため 石川氏は断絶となった。長谷川氏らの諸将は須々木氏から新たに養子を迎えようとしたが、 久孝の娘婿である宗治が反対してみずから城主になることを望んだ。永禄八年(1565)、 反対派の長谷川氏らを討って高松城主となるとただちに毛利氏に通じ、小早川隆景の麾下に属したのである。
 石川氏断絶後の家中内訌を押さえてまんまと石川氏の旧領を手に入れた宗治は、 高松城主になる前は幸山城主であったという。幸山城主石川久式と高松城主石川久孝とは 名乗りからみても近い一族であったように思われる。しかし、宗治が高松城主になった 永禄八年当時、幸山城主は石川久式であり宗治が城主にあったとは思われない。宗治が高松城主となるころの 歴史に関しては、なんとも腑に落ちないところがある。 他方、伊予高峠城主であった石川氏は 備中の石川左衛門尉の子虎之助を祖とするといい、高松城主石川左衛門との関係を感じさせる。 いずれにしろ、備中石川氏をとりまく歴史は確かな系図が伝わっていないこともあって、 まことに混沌としたものというしかない。


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伊予石川氏のこと


 伊予国高峠城主として宇摩・新居両郡を支配下においた石川氏は、備中石川氏の分れであるようだ。 『新浜市史』によれば、備中守護に補せられた細川氏は石川氏を守護代としたが次第に勢力が衰え、 石川氏が領主となった。大永二年(1522)、石川左衛門尉の子虎之助は宇摩・新居両郡の領主に迎えられ、高峠城主となり伊予守を号したという。
 阿波細川氏の重臣であった三好氏は、長慶の代に主家細川氏を凌ぐようになり、ついには四国から出て畿内までを支配化におく勢力となった。高峠城主の石川備中守も長慶と親交を結んだが、長慶の死後、三好氏は内訌を繰り返すようになった。やがて、土佐を統一した長宗我部元親が四国統一に乗り出し、阿波白地城を本拠として伊予にも攻略の手を伸ばしてきた。高峠城の石川備中守、金子備後守らは人質を出して長宗我部氏に降った。備中守の嫡男刑部は元親の弟親泰の娘を迎え、のちに人質として滞在した土佐において早世した。そのあとは、親泰の娘との間に生まれた虎竹が祖父備中守を後ろ盾として高峠城主となった。

金子備後守の活躍

 天正十二年(1584)、備中守が他界すると、姻戚にあたる近藤長門守と金子備後守が後見人となって虎竹を補佐した。 石川氏の勢力は後退せざるをえず、知謀にすぐれた備後守が石川氏に代わって采配を振るうようになった。
 当時、本能寺の変で織田信長が死去したのち、部将の一人であった羽柴(豊臣)秀吉が織田家中のライバルを蹴落とし 天下人への道を邁進していた。石川家の舵を取る備後守は長宗我部氏に属しながら、秀吉幕下の小早川隆景とも通じる など、生き残りを懸けて悪戦苦闘していた。かくして天正十三年、秀吉は毛利輝元・小早川隆景に命じて四国平定の軍を 進めた。毛利氏の攻撃によって伊予の諸城は次々と攻略され、備後守の居城である金子城も陥落した。
 高峠城で石川虎竹を補佐していた備後守は諸将を集めて軍議を開いた。近藤長門守は秀吉に降ることを説いたが、 備後守は長門守の意見を是としながらも長宗我部氏への節を貫くことを選んだ。諸将も備後守に賛同し、軍議は決戦と いうことに決した。備後守を大将とする宇摩・新居両郡の将士らは、高尾城に拠って小早川勢を待ち構えた。備後守らの 戦意を見た隆景が大軍をもって高尾城を包囲すると、備後守らは城に火を放って城外に打って出た。そして、 橘の野々市原に進んで激戦を展開、ことごとく討死をとげた。備後守らの奮戦に感じ入った隆景は、野々市原に千人塚を 作り、備後守らの菩提を弔った。
 野々市原の合戦で金子備後守は勇名を残したが、かれが補佐した石川虎竹のその後の消息は知れない。 いずれにしろ、備後守らの戦死で石川氏も没落を余儀なくされたようだ。備後守にすれば節をまっとうしたことになるが 、主家にあたる虎竹を守って石川家を残すという、現実的な泥をすする(格好の悪い)道は選べなかったのだろうか。 ・2010年01月28日

【主な参考資料:岡山県史・高梁市史・新居浜市史・日本城郭体系・姓氏家系大辞典 など】



■参考略系図
・岡山県史・新居浜市史などから作成、正確な系図は不詳。


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