清水氏
三つ盛り三つ巴
(田使首難波氏族/平氏後裔とも?)
*宗治の子孫で毛利氏に仕えた
清水氏の紋。
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清水氏の出自等については不詳である。一説によれば田使首の後裔で、源平時代に平清盛に使えた難波三郎経遠の裔とするものもある。萩藩清水氏の書上には、宗治以前は不相知とある。備中東南部の国人と推測される。
戦国のころ備中国南部の国人連合の旗頭は石川左衛門佐久孝であり、その旗下に長谷川・清水・鳥越・生石・上原・中島・林等の一郡半郡を領する国人衆が属していた。高松城は石川氏の、幸山(高山)城は清水氏の居城であったといわれている。なお、備中国南部の内陸部は須々木・秋山等の国人に領されていた。
●高松城主となる
高松城主石川久孝には子がなく須々木某の末子筑前なるものを養子にしていたが、筑前にも子がなく、石川氏の跡目について争論が起こった。この跡目争論をリードしたのが清水氏と長谷川氏で、清水宗治は高山城主から高松城主になることを望み、永禄八年(1565)高松城内の寄り合いの席上、長谷川を誅殺し、諸将から人質をとって盟主となり高松城主となった。
天正二年(1574)、毛利氏の麾下に属し、小早川隆景の勢力に入り、数々の戦功をあげている。同六年には、須々木・秋山両氏をも征服した。同十年、中国平定のため織田信長の部将羽柴秀吉、蜂須賀正勝、黒田孝高らが進出、備中境の七城−宮地山・冠山・高松・鴨・日幡・松島・庭瀬−が毛利氏の前線となった。秀吉方の画策によって、須々木・秋山・上原・生石等は離反し、林氏らは落城戦死した。
高松城には、宗治ほか兄宗知(月清入道)、中島、林、荒木、湯浅、新倉などの諸将が籠城。秀吉は後世に名高い「水攻め」によって城を包囲し、高松城は湖の孤城となった。毛利氏は安国寺恵慶の仲介により、秀吉との講和をすすめることとなった。そして、本能寺の変を機に秀吉から毛利氏に講和条約が出され、宗治の切腹をもって講和の証と決まった。宗治は、城兵の命を救う為、1582年6月、湖上に舟を浮かべ自刃した。享年46才であったという。この時、兄である月清入道、難波伝兵衛、毛利の軍監査末近らも自刃した。こうして高松城は開城され、城中の諸氏は備後へ退出、宗治の妻子は備中川辺へ退いた。
●清水氏、近世へ
秀吉が天下をとってのちに、宗治の嫡子景治を大名にとりたてようとしたことがあったが、宗治はそれを断わり毛利氏方に残えた。以後、小早川隆景に属して各地に転戦し、秀吉の朝鮮出兵にも小早川軍として参加、碧蹄館の戦いでは前線で活躍し、隆景から感状を受けている。隆景が養子の秀秋に筑前・筑後を譲った際、景治は秀秋に仕え、のちに秀秋が秀吉の怒りをかって領地没収となったあと毛利氏に復している。
関ヶ原の戦いで毛利氏が八ケ国から二ケ国に領地を削られ、萩に転封となったとき、景治は窮迫した毛利氏の財政立て直しに腕を振るった永代家老益田元祥の財政改革を補助しその実現に尽力したという。のちには江戸家老職に任じられている。萩藩における清水氏は、毛利一門、永代家老家に次ぐ「寄組」の一家として毛利氏に仕えた。
清水宗治 -中世備中の武士-
http://ww3.tiki.ne.jp/~yamaken/a/muneharu.htm
■参考略系図
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