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安芸天野氏/右田毛利氏
●蛇の目*
●藤原南家工藤氏流
*毛利十八将図に見える。遠江の天野氏や家康に仕えた天野氏は「三階松に月」紋だが…。
 


 天野氏は藤原南家工藤氏の一族で、代々伊豆国田方郡天野郷に住して天野氏を称し、源平争乱期の景光の子遠景に至っておおいに名があがった。遠景は天野藤内を称し、流人であった源頼朝の配所に参じてその信用を得、頼朝の旗揚げには初めから加わった。
 平家滅亡後、頼朝と対立関係となった義経が九州惣追捕使に補任されたが、文治二年(1186)、天野遠景が義経に替わって九州惣追捕使(鎮西奉行)となった。肥前国神崎荘に対する武士の乱行停止や、平家の残党を討つなど、遠景は幕府の命を受けて九州方面で十年近くにわたり活躍した。しかし、荘園領主などの反発もあって、遠景は奉行職を解任され鎌倉へ帰っていった。
 遠景の子政景は、承久三年(1221)の「承久の乱」に戦功があり、長門国の守護職に補任され、また遠江国山香荘の地頭職も得ている。政景の子景経の系統は安芸守や周防守を歴任して、その子孫は安芸国や出雲国および石見国・周防国などに広がっていった。

天野氏の出自、考察

 安芸に土着した天野氏には二つの流れがあった。ひとつは金明山城主天野氏であり、ひとつは生城山(米山)城主天野氏であった。
 天野氏の出自は先述のように、藤原南家工藤氏の一族とするのが定説だが、金明山城主天野氏の系譜によれば、藤原北家中納言山蔭より出て、足立遠元の子が天野遠景となっている。さらに、遠景は後三条天皇の第三皇子輔仁親王の男有仁親王、その子少将基仁、その子が遠景で、遠景は伊豆国天野庄に重して天野と称した。のちに足立遠元の養子となり、足立を称したとある。
 一方、生城山城主天野氏の系譜は、藤原南家工藤氏の一族で、代々伊豆国田方郡天野郷に住して天野氏を称した。伝えいうに後三条天皇の第三皇子輔仁親王、はじめて伊豆国天野庄を領し、子孫ここに住して藤内遠景に伝えたとしている。
 金明山城主天野氏、生城山城主天野氏は、ともに藤原氏の後裔としながらも北家、南家と相違を見せ、いずれも後三条天皇の第三皇子輔仁親王との関わりを伝えているのである。しかし、輔仁親王後裔説は、そのままには信じられないものである。当時、公卿と武士との身分差ははなはだしく、第三皇子輔仁親王の孫少将基仁の子が坂東武者足立氏の養子になるとは考えられない。
 ひとつの推理として、足立遠元は天野庄の庄家基仁から荘園の管理を任され、何らかの理由によって譲られたとも考えられる。しかし、足立氏の本拠地である武蔵国足立郷と伊豆国田方郡天野郷とはあまりに遠過ぎるし、都の公卿が実質的な在地管理者とはいえ血縁もない武士に荘園を譲るとは考えられない。とはいえ、天野氏は少将基仁と何らかの関係を有し、藤原南家工藤氏の一族として足立氏とも関係を持った氏族であったとして、まず当たらずとも遠からずというところであろう。
 さて、遠景の子政景は、所領すべてを相続し伊豆国天野庄に居住した。長男が早世したため、七男の景経にあとを継がせた。景経の長男遠時は足立家を継いだため、二男の政光が家督を相続し、三男遠顕は領地を分与されて一家を立てた。そして、政光の子孫が金明山城主天野氏となり、遠顕の子孫が生城山城主天野氏となったのである。

乱世と天野氏

 南北朝の争乱に際して政光の長男政貞は、宮方の新田義貞に属して諸処を転戦した。政貞の嫡子政国も父と同じく南朝方に味方し、延元二年(1337)、新田義顕とともに越前国金崎城で高師泰軍と戦って討死した。政貞は新田義顕の子を養育し、顕政と名乗らせて養子として家督を譲った。新田氏が没落したのち、安芸国に下向して志方郡堀荘に住した。
 天野氏はその後も南朝方に属して、安芸の熊谷宗直・小早川頼平らと連携し、楠木、和田氏らの遺臣を金明山に匿い、みだりに人の出入りを許さなかったという。しかし、顕政の子顕元は幕府に帰順して将軍義満に属するようになった。そして、「応仁の乱(1467)」後、元氏の代になると周防の大内氏に属した。
 一方、遠顕の子顕義は安芸国志芳荘をはじめ、美濃国、遠江国、武蔵国、河内国などに地頭職を有していたが、安芸国志芳荘に入部した。その時期は、南北朝の争乱期であったとされている。おそらく、乱世のなかで分散した領地の多くは侵食され、もっとも安定していたと思われる安芸国に活路を見い出したのではないだろうか。
 顕義ののち、顕氏、顕忠、顕房と続き、顕房は応永八年(1401)に志芳荘東村の三分方の地頭職を譲られ、同二十八年、将軍義政から東村全部の地頭職に補せられた。寛正三年(1462)、顕房の孫家氏は将軍義政の命を受け河内に出陣し、その功により大内氏から東西条原村の地を与えられた。「応仁の乱」には、大内政弘に従って西軍の山名氏に属し、嫡子弘氏とともに五百騎を率いて京都・備中・摂津を転戦した。これらの活躍によって、讃岐守興次の代になると志芳荘全部を獲得するに至ったようだ。
 天野氏は大内氏に属して勢力を拡大してきたが、永正九年(1512)、興次は近隣の国人領主である毛利興元・平賀弘保・小早川弘平・阿曽沼弘秀・高橋元光・野間興勝・吉川元経、そして、金明山城の天野元貞と一揆契状を結んで、互いの権益と立場の維持を図っている。
 やがて、大永のはじめ(1521)になると、出雲の尼子経久が安芸へ侵攻するようになり、興定は他の諸将とともに大内氏から尼子氏へ転じた。それをみた大内義興は嫡子義隆とともに安芸に侵攻、大内方の将陶興房は加茂郡に入ると天野氏の拠る米山城を包囲した。当時、尼子氏を離れて大内氏に属していた毛利元就が、大内氏と天野氏の間を仲介して和睦を進め、興定も情勢の不利を悟り米山城を開いて大内氏に降った。以後、興定は陶興房とともに尼子方と戦い、その忠節を認められて米山城に復帰している。

天野氏、近世へ。

 天文九年(1540)、尼子晴久が毛利氏の居城郡山城を包囲すると、興定は弟の興与とともに毛利氏に味方して郡山城に入り活躍した。ついで、翌十年には尼子方の武田信実の拠る佐東銀山城攻撃を攻撃した。興定の子隆綱は毛利元就の嫡子隆元ともに大内氏のもとに人質として出されていたため、隆綱と隆元は親しい関係にあった。しかし、大内義隆が陶隆房(晴賢)の謀叛によって殺害されると、晴賢が立てた大内義長に従った。のち毛利元就に従い「厳島の合戦」に毛利方として出陣したが、合戦後、急逝してしまった。隆綱には嗣子がなかったため、弟元定が天野氏を継承した。
 ところで、金明山城主天野氏は元氏に男子が無かったため、米山城主天野弘氏の子元行を養子とした。のち、元行は元連と改めている。この元連のとき毛利元就の奇襲を受け、金明山城を一時占拠されるということがあったが、ほどなく奪還している。元連の嫡子隆重は大内氏に属し、天文年中(1532〜54)に大内義隆から筑前国内に領地を賜っている。天文二十年(1551)、陶晴賢の謀叛によって大内義隆が殺害されると毛利氏に属した。
 かくして、両天野氏ともに毛利氏の麾下に属すようになり、永禄八年(1565)、尼子氏の本城富田月山城攻めには、元定と隆重はともに出陣して軍功を立てている。
 永禄十年、尼子氏が没落したのち、隆重は富田月山城を預けられ、出雲能木郡のうちに八百貫の地を賜った。十二年、尼子勝久を奉じて尼子家再興を企てた山中鹿介ら尼子遺臣団が富田城を包囲したが、隆重の守りは堅く尼子勢はついに抜くことができなかった。その功績により、出雲国など五ケ所に所領を与えられた。元亀年中(1570〜72)、元就の子元秋が富田月山城に入城してくると、隆重は高津場城に移り元秋を補佐した。
 隆重の子元祐は、毛利元就の下知により、大内義隆に従い戦死した隆重の弟隆良の跡目を養子相続し、成人ののちは、出雲国富田月山城・備中松山城の在番となった。隆重の没後は元嘉が家督を継ぎ、関ヶ原の戦のあと、改めて毛利輝元から久原・長野などのうちに千五百石の地を与えられ、久原村に居住した。
 一方、生城山城主天野元定は、永禄十二年、筑前に出征したが立花の陣で病を得て帰国、そのまま死去した。元定も嗣子がなく、元就の七男元政が婿養子として迎えられ天野氏を相続した。のちに元政は、毛利氏に復し右田毛利氏の祖となった。
 こうして、安芸に土着した天野氏はいずれも近世に家名を伝え、毛利氏の一族、家臣として近世に続いたのである。・2005年07月07日

参考資料:萩藩諸家系譜 ほか】

■ 三河天野氏/ ■ 遠江天野氏



■参考略系図
●旧版系図


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