平賀氏
梅ヶ唐花
(藤原姓/三国真人後裔説あり) |
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戦国時代、安芸南部で活動した国人領主平賀氏は太政大臣良房の後裔といい、系図などによれば松葉遠江次郎資宗が始祖となっている。資宗は『吾妻鏡』に松葉次郎とみえ、尾張国松葉庄を領有し松葉氏を称したのだという。源頼朝の旗揚げに参加し、源平合戦における功によって、出羽国平鹿郡、安芸国高屋保、上総国桜尾郷、越中国油田条などを領有するようになった。資宗は源実朝の学問所番衆を務めており、文人としての才能もあったようだ。
資宗の子惟泰のときに出羽国平鹿郡に下向したようで、惟泰・惟時兄弟は出羽国平賀郡にちなんで、平賀を名乗った。その平鹿氏が安芸に下向したのは、文永十一年(1274)、文永の元寇が契機となったようだ。そして、御薗宇城を築いて所領の支配にあたり、平鹿を平賀に改めたという。とはいえ、平賀氏は出羽国平鹿郡を本領としており、安芸の所領の支配にあたったのは庶子であったようだ。
南北朝時代、兼宗の庶長子で高屋保にあった共兼は足利尊氏の西走に従った。以後、尊氏に属し、延文元年(1356)には細川頼之のもとで戸野城攻略に功があった。ところが、共兼と弟で惣領にあたる直宗との間で家督をめぐる抗争があり、勝利をおさめた直宗が高屋保に下向、所領の支配にあたるようになった。出羽国にも一族が残ったようだが、南北朝の争乱のなかで平鹿郡は失われ、平賀氏惣領家の所領は安芸国の高屋保・入野郷が主となった。嘉慶元年(1387)のころ、平賀弘章の国衙職押領のことがみえ、平賀氏が所領・諸職の拡充に努めていることが知られる。
かくして、平賀氏は安芸の国人領主として着々と地盤を固め、応永の安芸国人一揆においては妙章(弘章)が毛利光房とともに指導的役割をはたしている。ついで応永二十六年(1419)、毛利氏の内紛が嵩じ、毛利氏庶子連合が郡山城を攻撃したとき、高橋・宍戸両氏とともに調停に尽力した。同三十二年、郡戸郷内地頭分が与えられ、その後、大内氏が興隆寺に寄進した同郷正税百三十貫の請負代官となった。文安二年(1445)以後、造賀保西方・東方、乃美郷を得た。一方、名井・入野・大畠の庶子家を領内に封じ、平賀氏は安芸南部の有力国人に成長していったのである。
●戦国乱世を生きる
応仁の乱を経て、戦国時代になると、室町幕府体制は大きく動揺し、将軍の権威も失墜していった。延徳四年(1492)、細川政元のクーデターによって将軍足利義稙が失脚、京を脱出した義稙は放浪の身となった。義稙は越中の神保氏を頼り、さらに周防の大内義興を頼ってきた。義稙を受け入れた義興は、細川政元が内訌で倒されると、義稙を奉じて上洛の軍を起した。この陣には周防・長門をはじめ筑前・豊前の兵が従い、安芸からは武田元繁をはじめ毛利・吉川・小早川・熊谷氏、そして平賀弘保が従軍した。
永正五年(1508)、京に入った義興は細川高国と結んで幕政を牛耳った。その間、細川澄元の反撃によって丹波に奔るということもあったが、船岡山の合戦に勝利によって大内・細川高国政権はふたたび京を支配下においた。この船岡山合戦において、平賀氏ら安芸の国人衆が勝利に貢献した。
その後、厳島神主興親が死去したことで、厳島神主家に内紛が起った。義興は武田元繁を帰国させて、事態の処理にあたらせたが、逆に元繁は大内方の諸城を攻撃して勢力の拡大を目論んだのである。かくして、武田元繁を震源地として安芸は戦いが繰り返されることになった。
その間の文亀三年(1503)、平賀弘保は御薗宇城とは別に白山城を築き、家臣にも城下に屋敷を築かせ、市場を開き城下町を形成していった。その後、新たに頭崎城を築き、広保は白山城に、頭崎城には嫡男の興貞が在城して戦乱に備えた。
やがて、出雲の尼子氏の勢力が安芸にも及ぶようになると、平賀氏は大内方と尼子方とに分裂した。すなわち、白山城の平賀弘保と孫の隆宗・広相らは大内方に属し、頭崎城の興貞は尼子氏に属したのであった。かくして、平賀氏は親子が相争うという事態となった。天文九年(1540)、大内方に転じた毛利元就が頭崎城を攻撃、敗れた興貞は僧籍に入り、平賀氏の家督は興貞の嫡子隆宗が相続した。
隆宗は毛利元就の与力として活躍、天文十八年(1549)、備後神辺城を攻撃中に死去した。弘保は隆宗の弟広相に継がせたいと願ったが、平賀氏の弱体化を狙った大内義隆は小早川家庶流の隆保に平賀家を相続させたのである。
●毛利氏に属す
天文二十年、義隆が陶晴賢の謀叛によって倒されると、弘保と親しかった元就は平賀家の内紛に介入して隆保を攻め、平賀家中の希望をいれて広相に家督を相続させた。そのうえで、翌年、平賀領に隣接する三男小早川隆景に広相との兄弟契約を結ばせるとともに、二十二年には嫡子隆元、ついで次男吉川元春にも広相との同盟を締結させて毛利・平賀両家の関係強化が図られた。
また広相も、二十年、二十二年と二度にわたり、平賀家再興を謝し、忠誠を誓約する起請文を毛利氏に提出し、二十三年、毛利氏が陶氏と断交したときは、陶からの使僧を捕えて毛利方に送るなど、以後毛利方として活躍する。同年、安芸国東西条のうちで五十貫、永禄九年(1566)周防国熊毛郡にて三百六十五石、玖珂郡にて百五十石を宛行われた。
その一方で同年、出雲富田城攻めのさなかに元就が病に伏すと、隆景・元春と毛利氏への忠誠を誓約する起請文を再び交換するなど、なお自律的性格も維持していた。永禄十年三月に広相が死去すると、元相が家督を継いだ。元相は毛利氏の重臣として安芸高屋一万八千三百石を領し、慶長元年(1956)、従五位下に叙位され豊臣姓を受けた。慶長五年、関ヶ原の合戦が起り、戦後、毛利氏が防長二国に減封されると、平賀氏も四千石に減知となった。
平賀氏の家紋は、「唐花紋」として知られる。伝によれば、松葉資宗は壇ノ浦の合戦で平家の赤旗を射切った功で、文治元年(1185)、後鳥羽院より、御製「出つ羽なる平賀の庄に咲花は幾たび見ても梅のから花」を賜った。その時から資宗は唐花を家の紋とし、平賀氏に受け継がれたのだという。とはいうものの、後鳥羽天皇が上皇(院)になったのは建久九年(1198)のことであり、文治元年の当時、天皇は六歳という幼年であった。平賀氏の家紋に関する伝説は、「そのようなこともあった」と捉えるのが無理がないといえそうだ。
戦国時代、平賀氏の城下町であった東広島市白市地区には、いまも平賀氏の一族であった木原氏が続いている。江戸時代、製塩、酒造業を営み商家として栄えた木原氏は、平賀氏の一族らしく「唐花」を家紋に用いている。
【右図】木原氏の六つ唐花紋
■参考略系図
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