少弐氏
寄懸り目結
(藤原氏秀郷流)
●右は一族筑紫氏の寄懸目結紋


 武藤氏の家紋は、「寄懸の目結」であったことが知られている。「寄懸り」とは、いわゆる立て掛けた状態を 図柄にしたもので、隅が立った状態となっている。目結は「メユイ」と読み、古代の染め方の一種である 纐纈(コウケツ)染めのことである。江戸時代には鹿子染とか鹿子斑ともいわれた。いわゆる、布を糸で括って 染料に浸すと括った部分だけが目のように白く染め残る。つまり、目結とは白く斑に染め残った模様のことである。 「目結紋」は、近江源氏佐々木氏の代表的な家紋として有名である。
 『北肥戦記』に、武藤氏の家紋について「左中将尾張守藤原長頼は、相伝の知行地である武州戸塚郷に下り、 武州の藤原であるから武藤中将と名乗った。その子頼氏は、八幡太郎義家に従って奥州に出陣し、 寄懸の紋の旗を賜った」とある。すなわち、武藤氏の「寄懸の目結」の家紋は武藤頼氏が「後三年の役」において 義家から賜ったということになる。 『蒙古襲来絵詞』には、太宰少弐景資と「寄懸の目結」紋の旗が描かれ、紋の図柄が「隅立て四つ目結」で あったことが分かる。
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右図:『蒙古襲来絵詞』の部分

 もっとも、後三年の役当時に家紋があったとは思われないが、武藤氏は平安末期には家紋を用いていたようだ。 ついで『北肥戦記』には、武藤頼武が文治五年(1189)の頼朝と平泉藤原氏との奥州合戦に参加し、 「累代相伝の寄懸の旗を靡し、戦功を抽んで」と記している。一方、『武藤少弐系図』には 「源頼朝が武州国府において軍勢を調えた時、頼平は八幡殿より賜った寄懸文の旗を指して馳せ参じた」とある。
 また、『見聞諸家紋』には、武藤氏の家紋として「寄懸の目結」が記され、『応仁武鑑』もまた、 武藤氏の家紋を目結としている。このように、寄懸目結紋は武藤少弐氏の代表紋として、古来、著名なものであった。 その紋形ははじめ『蒙古襲来絵詞』に見えるように「寄懸四目結」であったが、佐々木一門と区別するため目結の紋を 増やして『見聞諸家紋』に見えるような多くの目から出来た「寄懸目結」に変化していったものと思われる
 家紋は武家を中心として広まっていったが、それゆえに、武威を高める、敵味方を区別する、自らの功を大将 に印象づけるために、遠目からもすぐに分かる単純明快な図柄が好んで用いられた。「目結紋」のように 単純明快な図柄は、まことに武家にふさわしい家紋であったといえよう。




●武藤氏の寄懸目結/(応仁武鑑にみえる)武藤氏の寄懸目結/(見聞諸家紋にみえる)佐々木氏の四つ目結


■武藤少弐氏 ■武藤大宝寺氏


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