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覇を競った武将
・武田信玄 ・能登畠山氏 ・北条氏康 ・神保長職 ・椎名康胤 ・織田信長



家紋・家名をクリック!詳細情報にリンクしています 武田信玄
●武田菱

 武田氏は清和源氏で、新羅三郎義光の後裔。
 明応四年(1495)武田信縄、信恵兄弟同士が争う甲斐国の内戦に目をつけた新九郎は、二万の大軍を率い都留郡の鎌山に布陣した。これに対して、信縄・信恵兄弟は、お互い鉾をおさめて相模勢の侵攻に当たっている。文亀元年(1501)再び北条早雲が甲斐へ侵入したが、武田の猛攻に屈し敗走している。
 武田氏では晴信・信玄が有名だ。晴信はクーデターで父信虎を駿河に追い自立し、戦国大名として近隣に名をはせた。
 一方、景虎も越後国を統一し、上杉憲政を擁して関東へ出陣している。永禄四年憲政から上杉の名跡を譲られ、関東管領職に就任して憲政の一字もらって政虎と改め、以後上杉氏を称した。その頃甲斐の武田信玄が信州に侵攻を繰り返し、村上・高梨・小笠原氏ら信濃の大名たちは、次々と信玄に敗れ、政虎(謙信)を頼ってきたのである。そして戦国の二代英雄、謙信と信玄が「川中島」の地で激突することとなる。
 川中島とは千曲川と犀川とが合流する地域で、善光寺平とも呼ばれる。高井・水内・埴科・更級四郡がいわゆる川中島四郡で、肥沃な水田地帯であり、政治・経済上の要地であった。
 川中島の合戦は戦国史上最も有名な合戦の一つであり、この合戦は天文二十二年(1553)から永禄七年(1564)まで足かけ十二年に前後五回の対戦があったといわれる。謙信は二十四歳から三十五歳、信玄は三十三歳から四十四歳のともに血気盛んな時代であった。五回の対戦のうち主力同士が激突したのは第四回の永禄四年九月十日の合戦で、狭義の川中島の合戦とはこれを指している。
 武田軍は作戦の失敗で最初は苦戦し、信玄の弟信繁が戦死するなど甚大な損害を出したが、やがて別働隊が到着して形成逆転し、越後勢は北走するにいたった。
 川中島の合戦の結果について、互いに勝敗があったものの、両軍いずれが勝ったかは、どちらがより多くの戦争目的を達成したかを調べれば明瞭に分かる。すなわち、この戦いでいえば、信濃の完全領国化をめざす信玄が残された最後の地川中島四郡に進出したのに対し、信玄に追われた信濃の武将たちの旧領奪還はならなかった。
 戦闘では、謙信の奮闘はあったものの、戦争以外の日常活動、いわば戦場以外の戦争で謙信は信玄に勝利をなさしめたといえそうだ。


家紋・家名をクリック!詳細情報にリンクしています 能登畠山氏
●二つ引両

 室町時代初頭、畠山国清が足利尊氏に従って戦功をあげ、鎌倉公方足利基氏の執事なり専権を振るった。その弟義深は、能登・越中・河内・和泉などの守護になり、その子基国は三代将軍義満に重用され、明徳の乱・応永の乱に戦功を挙げ、幕府の管領となった。基国の子満家が宗家を継ぎ、その弟満則が能登守護となり、以後この系統を能登畠山氏と呼ぶ。
 上杉謙信が越中にはじめて侵攻したのは永禄三年であった。しかし謙信は関東の北条氏康、甲斐の武田信玄らに牽制され、南した作戦は容易に進まなかった。元亀三年、椎名康胤と結んだ越中の一向一揆が信玄の西上作戦に呼応して蠢動した。しかし、翌年信玄が没し越中勢は拠り所がなくなり、たちまち謙信に越中は平定された。謙信はすぐさま加賀侵攻を企てる。
 一方、織田信長は越前の朝倉氏を滅ぼし、一揆に北上して南加賀まで進出してきた。謙信と信長は信玄在世中は同盟関係にあったが、ここにおいて両者は加賀をはさんで衝突する様相を呈した。だが、謙信は関東の情勢が不穏のためいったん帰国、信長も越前に諸将を配置して引き上げた。ところが、その虚に乗じて一向一揆が南加賀を奪還し、さらに越前も制圧するに至った。
 天正三年信長は再度越前に侵攻し、翌年には加賀に足を踏み入れ、一向一揆を圧倒した。一方謙信は信長の北国進出に対抗して一向一揆と和睦し、加賀への進撃を前に能登の平定を図った。このころ、七尾城主畠山氏は内紛が続いていて、当主も幼少の畠山春王丸であった。しかし、天険の要害七尾城での篭城作戦をとり、城兵よく越後勢の猛攻に耐え死守した。
 ところが篭城戦のさなかに春王丸が没し、城内は動揺したが、城兵よく上杉勢の攻撃をしのいだ。手を焼いた謙信は内応者をさぐり、遊佐・温井・三宅らがそれに応じ、一人反対するのは長綱連ばかりとなった。そして、遊佐氏らはクーデターを起こし長氏一族を殺害、謙信に降った。ここに七尾城は謙信の手に落ち、能登の名門畠山氏は滅亡した。


家紋・家名をクリック!詳細情報にリンクしています 北条氏康
●三つ鱗

 戦国時代、伊勢新九郎長氏を初代とする小田原北条氏五代を、鎌倉時代の執権北条氏と区別して「後北条氏」と呼んでいる。古来北条早雲といえば、美濃の斎藤道三と並び称される下剋上大名の典型例といわれてきた。 早雲自身は自分の出自については何も語っていない。ただ、永正三年の彼の書簡のなかで、伊勢の関氏と名字が一体であるといっているだけである。
 三代氏康は、領内に検地を行い、また税制を改革するなど民政面に手腕を発揮して戦国大名としての基礎を固めるとともに、軍事面でも天文十五年の河越夜戦で宿敵扇谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を越後に追い、関東から両上杉の勢力を一掃している。後北条氏が武蔵を確保し、さらに関八州の戦国大名へと飛躍していくことができたのは、この氏康の功績であった。
 越後の長尾景虎は、憲政の助けを求めてきたことに応じ、自ら兵を率いて関東に足を踏み入れた。以後、景虎は十四回にわたって関東に出陣し、厩橋城・沼田城を根拠地として、関東の諸城を攻略した。
 永禄三年八月、春日山城を発して厩橋城に入り、翌年小田原城を包囲した。景虎は一ヵ月にわたって包囲戦を展開したが小田原城は微動だにしなかった。そうこうしているうちに「信玄が信濃に進出、越中の一向一揆が越後に侵入」という急報が入り、長陣は不利であると判断し兵をまとめて鎌倉に引き上げた。そして、同年憲政のたっての頼みで山内上杉家を相続し、関東管領に就任。以後、長尾を改め上杉氏を称した。
 その後、北条氏と上杉氏は和睦し、実子のない謙信のもとへ氏康の子が養子として入り、景虎を名乗った。謙信死後、もう一人の養子景勝と争った景虎その人である。


家紋・家名をクリック!詳細情報にリンクしています 神保長職
●竪二つ引両

 神保氏はその出自に関して諸説があり、惟宗氏・平氏・橘氏の三つが比較的一般に受け入れられているようだ。鎌倉に出て畠山氏に仕え、畠山基国が越中を領するようになり、これに従って越中に入国した。
応仁の乱では、長誠が国人・土豪層の把握に成功し、畠山氏に代わって政治を執り、将軍足利義材を放生津に迎えたこともあった。長誠の死後、子の慶宗が継いだが同族の慶明と戦い、さらに越後から侵入してきた長尾為景と戦い、ついに1520年、慶宗は討死している。その後は慶宗の子とされる長職が富山城に拠って上杉勢と戦っている。
 永禄三年(1560)年三月、信玄の誘いに乗った神保長職は一向一揆と結んで、松倉城に攻め寄せた。城主椎名康胤は上杉謙信に援軍を求めてこれを撃退。逆に神保氏の居城・富山城を囲んだ。これに対して、神保長職はどうすることもできずに城を放棄して増山城に逃れた。しかし、ここも囲まれたために国外へ逃亡していった。
 戦国末期の氏張は、はじめ畠山氏の被官であったが上杉謙信に属し、さらに織田信長に通じて佐々成政の与力となった。佐々成政に従って、肥後におもむいたが、成政が改易に遭い、浪人。のちに家康に仕え、家は幕臣として続いた。


椎名康胤
●蔦の葉

 千葉介常重の子・胤光(一説に常重従兄弟)が千葉庄椎名郷(千葉市椎名崎)を領して椎名氏を称した。越中国新川郡松倉城に移住し戦国時代北陸に名を馳せた椎名氏は、良明の孫・頼胤のころ、すでに越中国に大きな勢力を持っていて松倉城主であった。南北朝期、頼胤は南朝方の領袖・新田義貞に属して、その武勇をうたわれ越中五勇将の一人と称された。
 戦国時代、越中国は畠山氏の勢威が衰えをみせ、その守護代である神保氏(畠山家家臣)と椎名氏とで二分されていたが、次第に神保氏の勢力が拡大。神保氏は畠山氏からの独立を図ったことから、畠山氏は越後守護・長尾氏に救援を求めて神保氏討伐を開始した。一方、椎名氏も、神保氏の勢力が大きくなることを快く思わず、長尾氏に属して神保討伐に参加している。
 永禄三年(1560)年三月、信玄の誘いに乗った神保長職は一向一揆と結んで、松倉城に攻め寄せた。椎名康胤は上杉謙信に援軍を求めてこれを撃退。逆に神保氏の居城・富山城を囲んだ。これに対して、神保長職はどうすることもできずに城を放棄して増山城に逃れた。しかし、ここも囲まれたために国外へ逃亡していった。
 神保氏の没落後、椎名康胤は武田信玄の誘いに乗って上杉謙信を裏切って独立した。しかし、天正三年(1575)、康胤の子重胤は居城松倉城を上杉謙信に陥されると、下総国にのがれて千葉介邦胤をたよって越中から落ちていった。康胤は上杉氏に帰参を請うたが、容れられなかったようで、謙信に討たれたと伝える。


織田信長
●五葉木瓜

 永禄十一年、足利義昭を岐阜に迎え、義昭とともに上洛、入京一番のりをはたし、たちまちに畿内中枢部を制圧して、義昭を将軍とした。義昭はこれで有頂天になったが、信長にとっては、幕府回復は、天下制覇のための一手段、一階梯であったにすぎない。したがって、義昭との蜜月はあっけなく終わり、義昭は将軍の権威をかさに、反信長軍を呼びかけはじめる。
 当時、信長が恐れたのは北国の上杉謙信と甲斐の武田信玄であった。信長は誼を結ぶため、両者に贈物を何度か届けている。あるとき、信玄が信長から届けられた贈り物を入れた漆器に目を止めて、家臣にその漆器を削らせたことがあった。その漆器は何度も漆を重ねた極上品であった。贈り物はともかく、その入れ物にまでこの心配りぶりを見て、信玄は信長の誼を結ぶ心を信じたという。役者としては信長の方が一枚上手であったようだ。というよりも、信長に比べて信玄は田舎貴族であったというべきか。
 天正四年五月、謙信と本願寺光佐との和睦が成立し、謙信上洛の道が開かれた。翌五年、能登畠山氏の居城七尾城を陥し、加賀湊川で信長の部将柴田勝家・前田利家・羽柴秀吉・滝川一益らの軍を撃破し、加賀北半を平定した。謙信はこのとき、「信長と雌雄を決する覚悟でのぞんだが、あんがい手弱の様子、このぶんなら天下統一も容易である」と、豪語した。
 謙信はひとまず関東を平定してから上洛しようと、越後に帰国した。そして翌天正六年関東出陣の日を目前として、にわかに脳溢血で倒れ、春日山城で上洛の夢をみつつ、帰らぬ人となった。ここに至って、信長はさきに信玄、ついで謙信と、恐れる両雄の死によって、大きく天下統一への道を進めることとなった。
  


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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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