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タイトル
梟雄、宇喜多直家伝
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●享禄二年?(1529?)〜天正九年(1581)
●八郎、三郎左衛門、和泉守




 戦国武将で謀略を事としなかった者はいないが、宇喜多直家ほどあくの強い陰謀家も少なかった。悪逆暴戻、逆臣、獅子身中の虫、資性奸佞、などなど、直家に冠された形容はひどいものばかりである。
 直家の弟の忠家でさえ、晩年の述懐に「兄は恐ろしい男だった。腹黒く、なにをたくらんでいるかわからないところがあった。それゆえ兄の前に出るときは、かならず衣服の下に鎖帷子をつけたものだ」といったという。直家がいかに凄味のある男であったかがうかがわれる。

没落からの再興

 宇喜多家は備前地方では一応の名族で、直家の祖父能家は備前守護代浦上則宗・宗助・村宗の三代にわたって股肱の臣として仕えた。その事蹟は、京都南禅寺の僧九峰宗成が書いた「宇喜多能家画像讃」に詳しい。天文三年(1534)、邑久郡高取山城主島村豊後守に攻められ、能家は自害し、宇喜多家は没落した。このとき、直家は父興家に連れられ、砥石山城を脱出、以後流浪を余儀なくされた。すなわち、直家は徒手空拳で家を起こさなければならなかった。
 天文十二年頃、和気郡天神山城主浦上宗景のもとに出仕し、寵愛されて邑久郡乙子城を与えられた。そして、直家はひそかに志を立て、浦上家の実力者たちの抹殺に取りかかった。
 天文十八年(1549)、宗景の命により備中勢と内通の聞こえのあった邑久郡砥石山城主浮田山和を討って、祖父能家の居城を奪い返すとともに、その功により上道郡奈良部城を賜った。永禄二年(1559)には、仇敵島村豊後守および備中勢と内通していた上道郡沼城主中山備前守とを、策を弄して同時に討ちとった。その後、居城を沼城に移し、同四年には津高郡金川城主松田元輝麾下の口山城を後略して、邑久・上道の沃野を掌握した。
 このころから自立した大名化をねらって、精力的な軍事行動を展開するようになる。宿敵金川城主松田元輝と縁を結び、備前・美作陣出を目指す備中成羽城主三村家親に備えるとともに、永禄九年(1560)には刺客を派して家親を暗殺。翌十年、父の仇を報ぜんと二万の兵を率いて備前に攻め入った三村元親を、得意の策を用い、五千の兵をもって撃退した。明禅寺崩れといわれるこの合戦は、直家がその命運を賭けて戦った会心の勝利であった。

戦国大名へ

 この勝利に勢いを得た直家は、松田方の有力者である津高郡虎倉城主の伊賀久隆を篭絡し、明禅寺合戦に日和見を決め込んだ松田元輝を攻め滅ぼし、やがて、美作・備中に進出して毛利氏と激しく対立した。
 西備前を制圧した直家は、元亀元年(1570)、その麾下にあった御野郡岡山城主金光宗高に備中勢と内通の廉で切腹を命じて岡山城を奪い、備前福岡・西大寺の商工業者を集めて城下町の建設を進めた。
 その後、毛利氏と和を結んだ。これを嫌った三村氏は織田信長と結び、直家は毛利氏とともに、備中松山城を攻めて、三村元親を滅ぼした。直家はこれまで、主家浦上宗景に対しては敵対することはなかったが、天正五年(1578)直家の台頭を快しとしない宗景が織田信長と結んで頽勢挽回をはかろうとするや、進んでこれを天神山城に攻めて敗走させ、主家浦上氏を追放した。
 直家は、姻戚の最所元常を念の入った謀略で暗殺、ついで、美作の後藤美作守はわが娘を嫁がせた上で油断したところを毒殺、同じく姉婿の谷川久隆を毒殺するなど、まさに謀略による暗殺・毒殺などによって、備前・美作二国と備中の一部を手にする大名に成り上がった。
 羽柴秀吉を司令官とする織田軍の中国攻めがはじまると、直家は一段と本性をあらわにした。『備前記』によれば、直家は勝つ方に味方するという方針を定め、織田・毛利のそれぞれに味方である旨を申し送って形勢をうかがった。首鼠両端を持したわけだ。しかし、直家のこうした挙動は、やがて毛利方の警戒するところとなったため、天正七年、直家は毛利方と手をきって秀吉のもとに降った。
 以後、 天正七年から九年にかけて、小早川隆景、吉川元春の率いる毛利勢は再三にわたって宇喜多領に侵入、 備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など、各地で宇喜多勢と激戦を展開、 備中忍山合戦では宇喜多源五兵衛・孫四郎父子、備前八浜合戦では宇喜多基家が討死するなど、 直家は苦戦を強いられながらも辛うじてこれを防戦していたが、ついに病を得て天正九年二月、死去した。 享年五十三歳であった。
・直家の軍旗


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●戦国通史 ●戦国大名伝 ●三強の居城 ●国人領主と家紋 ●武将家紋地図 ●戦国武将割拠図 ●宇喜多直家伝