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■鎮西、戦国武将家紋地図
地図イメージ  


 北九州の戦国大名および武将の家紋を見ると、筑前では大蔵氏一族の原田氏が三つ引両、秋月氏が撫子紋を用いている。そして、鎌倉時代からの名族少弐氏の寄せ掛目結紋は『蒙古襲来絵巻』にも描かれている紋としても知られている。筑後では、星野氏が亀甲に三枚笹、黒木氏が違い鷹の羽を用いた。黒木氏の鷹の羽紋は、阿蘇神社を信仰したものであろう。
 豊前国は、下野の宇都宮氏の分かれである宇都宮城井氏と宇佐八幡宮の神紋でもあったの巴紋が多い。宇都宮氏からは野中、麻生、蒲池氏などの庶流が出て、いずれも巴紋を用いたことから、巴紋が広がっている。蒲池氏はのちに筑後に移住し、柳川城を築いて一大勢力を築いたことはよく知られている。
 豊前国は大友氏が、鎌倉時代から守護職に補されて、戦国時代まで九州の強豪として勢力を誇った。大友氏の家紋は杏葉で、中国で馬の装飾品として用いられたハイカラな紋であった。そして、大友氏一族をはじめ、功のあった家臣などに杏葉紋を下賜したことから、一国統べて杏葉紋の観を呈している。ところで、豊後は大友氏入部以前は、大神一族が勢力を持ち、源平合戦のときは平氏に属して活躍した。結果、嫡流は没落を余儀なくされたが、一族は残り、大神氏の紋である杉紋も伝統あるものとして用いられた。しかし、大神一族である佐伯氏は巴紋を用い、同じ一族である日向の三田井氏も巴紋を用いた。
 肥前国はどうか、まず龍造寺氏の日足紋が知られる。日足は太陽の光線を象ったもので、火の国にふさわしい家紋ともいえそうだ。もっとも、龍造寺氏はのちに大友氏との合戦に勝利したことを記念して杏葉紋も用いるようになった。戦国時代、勢力をもった大村、有馬の両氏はともに瓜紋を用いている。そして、松浦の松浦党は嵯峨源氏の出自を誇り、嵯峨源氏渡辺氏の代表紋である三つ星を用いた。松浦一族である、伊万里、佐志、波多氏らも三つ星紋を用いていた。
 肥後国は、鷹の羽紋の天下であった。これは、阿蘇神社の影響といえよう。そして、阿蘇氏の一族、一門は違い鷹の羽を用い、菊地氏の一族は並び鷹の羽を用いた。菊地氏の場合、鷹の羽を用いる以前は日足紋であったともいわれるが、『蒙古襲来絵巻』に菊地氏の鷹の羽紋が描かれていることから、おそくとも鎌倉時代中期のころには鷹の羽紋を用いていたようだ。
 このように、北九州の武将の家紋を見ると、まことにバラエティに富んでいる。そして、それに関東から西遷してきた千葉氏の月星紋、小代氏の軍配団扇紋、小田氏の洲浜紋などがあり、九州北部にいまも「関東の家紋が多い」といわれる源流となった家紋が見られるのである。


■鎮西戦国武将家紋地図
・天草氏の家紋は推定です。また、巴紋の左右のことは、通説に従いました。  



CONTENTS
●鎮西-戦国通史 ●戦国大名伝 ●大名/国人総覧 ●三強合戦記 ●三強の軍旗 ●戦国武将割拠図 ●戦国武将家紋地図 ●三強人物伝
・島津義弘・島津義久・竜造寺隆信・大友宗麟