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屋代氏
丸に上文字
(清和源氏村上氏流)


 屋代氏は村上氏の流れで、為国の子明国の孫家盛が屋代を名乗ったことが系図から知られる。そして、家盛の兄弟も屋代を称している。おそらく、一族が信濃国埴科郡屋代郷に住して屋代と号したものであろう。ちなみに屋代郷は、長野平の南部で千曲川の東岸にある。屋代氏は「永享の乱(1440)」に村上氏の代理として出陣するなど、村上氏の重臣の位置にあった。
 戦国時代にあらわれる屋代氏は、その系図によれば村上頼国の子という満照に始まり、その子正重、その子政国、そしてその養子秀正と続き、武田信玄の信濃侵攻後も屋代氏として残った。
 しかし、先にも記した村上明国系の屋代氏が、鎌倉期から室町中期に屋代に居住しており、屋代信仲や信光の系統が存在していた。それなのに、ことさらに満照を祖とする屋代氏があらわれたのはなぜだろうか。一説に、頼国の二男とされる満照のあとに信仲・信光を入れて正重につなぐ系図もあるが、村上頼国とのつながりを考えると、年代の上で合わないのである。
 いずれにしろ、満照が村上氏から分かれ出たこと、大永二年(1522)に、屋代の満照寺が創建されたとする寺伝などから、坂城の村上氏一族が旧来の信仲系屋代氏を圧して屋代の支配者となり、あらたな屋代氏となったものと考えられる。

戦国期、屋代氏の活動

 戦国時代の正重は永正年中(1504〜20)村上顕国に、嫡子正国は村上義清に属したが、天文二十二年(1553)の武田氏の北信濃侵攻に際して、屋代正国は塩崎氏とともにいち早く武田氏に服属し、村上義清の本城である葛尾城の落城の因をなした。以来、武田氏に属して三十年間にわたり信濃先方衆として忠勤を励んだ。
 正国の嫡子正長は正国の甥であったが、長篠の戦いで討死したので、正長の弟秀正があとを継いだ。秀正は武田勝頼に属し、武田氏が没落した天正十年(1582)には、松代海津城に入った織田氏の部将森長可に従属したものと思われるが、それを示す記録はない。その後、六月二日に織田信長が本能寺で横死すると、長可は京都へ引き上げたため、北信濃四郡は越後の上杉景勝の勢力下に入った。
 そして、松代には村上義清の子景国が城将として入り、秀正はその副将として二の丸に住した。景勝にしてみれば、村上氏のかつての重臣であった屋代氏を景国の補佐にすることで、信濃との縁が薄くなっていた村上氏の大きな力になるとの判断であった。しかし、景国と秀正の間はしっくりとはいっていなかったようだ。というのも、景勝から一字を与えられ、さらに更級郡を与えられた景国に対して、秀正の方は本領安堵をされたものの、人質を取られ持城の荒砥城は他氏に与えられるというように、遇され方に大きな差があった。その不満から、やがて信濃に徳川軍が侵攻してくると、酒井忠次を仲介に徳川方への内応を決意したのである。 なったものと考えられる。

転変の末、近世へ

 秀正は家康から更級郡を与えることを約束され、塩崎氏とともに上杉方から離叛したのであった。当然、上杉氏の軍勢が秀正の所領に押し寄せたが、奮戦して首級百余の戦果をあげ上杉軍を撃退した。その後、盟友関係にあった真田昌幸が家康と対立し上杉方に奔ったため、徳川軍が真田昌幸を攻めたとき、秀正は景勝の軍に攻めたてられたがよく防戦しこれも撃退した。これを聞いた家康は「比類なき働き」であると感賞し、内藤信成・大久保忠佐をつかわし秀正を慰問せしめている。
 その後、更級郡は昌幸が支配するところとなったため、秀正は先祖以来の地を離れざるをえず、家康のもとに身を寄せた。慶長五年(1 6 0 0)の上杉景勝征討のさいには、越後・加賀国に出張し堀秀治・前田利長らに軍令を伝えた。秀正は家康に忠実な武将として仕え、大坂冬・夏両陣にも参陣して旗奉行をつとめている。慶長十九年、甲斐国で一万五千石の地を秀正と真田信昌・三枝昌吉の三人で適当に分賦すべきとされた。
 その後は、嫡子忠正とともに徳川忠長に付属され、忠正は信州小諸城の守将となり一万石を領し家老となった。忠長改易後は安房国のうちで一万石を領し北条を居所とした。忠位の代に、農民の年貢問題がこじれ除封された。ただし、蔵米三千俵が祖先の勲功に免じて与えられ、子孫は徳川旗本として続いた。


■参考略系図

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