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志佐氏
●三つ星
●嵯峨源氏渡辺流


 志佐氏は中世の肥前北部一帯において勢力を振るった松浦一党の一である。松浦氏の出自については諸説があるが、嵯峨天皇の後裔という嵯峨源氏の流れとするのが定説である。すなわち、平安末期に渡辺綱の嫡子久というものが、肥前国松浦郡に下向して松浦氏の祖になったとするものである。とはいえ、松浦氏を嵯峨源氏とするのは、貴族流離譚の一典型であろう。
 ちなみに、十一世紀初頭の「刀伊の入寇」に際して、前肥前介源治なる者がこれを迎え撃ったことが『小右記』などにみえ、この源治が松浦氏の祖ではないかとする説もある。治は源姓であり、松浦氏に共通な一字名乗りを用いていることからもうなづけるものがある。また、武士の発祥のありかたとして、地方の国司あがりの者が、任を終えてのち帰京せず、そのまま任地に土着し、近隣の者を次第に服従させて、豪族的領主にのし上がるという例が多かった。関東の平氏、源氏、藤原氏などであり、松浦氏の先祖もそのような人物であったと考えるのが自然ではなかろうか。

志佐氏の登場

 さて、志佐氏の祖は『松浦家世伝』によると、松浦氏の一族御厨直の子清の二男貞となっている。そして、貞は清から「志佐・五島の東辺および西島、並び壱岐地」を分割譲与され、その所領のひとつである志佐を本拠とし、これによって志佐氏を称したものであるとしている。『山代文書』の寛元二年(1244)の関東裁許状に、肥前国御家人として志佐六郎貞がみえ、『松浦家世伝』の貞が実在の人物であったことが知られる。
 ついで、貞の居城については『志佐氏系図』に「志佐直谷城」をあげているが、鎌倉時代は城というより地頭館というもので、城の構えとなったのは南北朝以降のことであろうと思われる。貞には数人の男子があり、糺(継)が志佐氏を継承し、他の子らは松野尾・白浜などの庶子家を創出したらしい。
 糺のあとは祝が継ぎ、両人とも山代文書からその実在が裏付けられている。この糺・祝父子のとき元寇があり、そろって出陣して活躍したことが知られている。弘安八年(1285)、松浦一族で御厨地頭二十数名の者が、所領訴訟のため鎌倉に参向しようとして幕府の阻止を受けた。しかし、継は有田深・山代栄とともに一族を代表して幕府に出向しており、一族のなかでも重要な位置を占めていたことがうかがえる。

戦乱を生き抜く

 祝の子有の代に鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱期に遭遇し、有は他の御家人・地頭らとともに鎮西探題北条英時を追討し、幕府滅亡に功があった。南北朝期に入ると、志佐氏ら松浦一族は北朝方につき、有は宇久・ 青方氏らとともに肥後犬塚原の合戦に出陣している。延文四年(1359)、有は嫡子の定とともに少弐頼尚に味方して筑後川の戦いに出陣、菊池軍と戦って戦死した。
 定のあとは調が継ぎ、松浦党の一揆に加盟している。松浦一揆は九州探題として下向してきた今川了俊が北朝方軍事力として組織したもので、志佐氏もこの国人一揆の一員として、北朝方の軍事力の一端を担ったのである。南北朝合一後も一揆は継続し、調の子重は応永二十八年(1421)の一揆契諾状に名を連ねている。
 重の子義は壱岐国守護に任じられ(就任については疑問も提出されている)、代官真弓武を壱岐島に送り、朝鮮との交易を行った。朝鮮側の記録によれば、真弓武を「一岐州守護代官真弓兵部少輔源武」とあり、義が壱岐国守護であったことを示唆している。義は壱岐を足掛りに朝鮮との交易を意欲的に行い、松浦一族における朝鮮交易の頂点に位置していた。
 やがて、壱岐における志佐氏の統治体制に終止符を打たれるときがくる。志佐氏らの後塵を拝するかたちの肥前岸岳城主の波多泰が、文明四年(1472)、壱岐に侵攻し志佐氏の代官を追討したのである。これによって、波多氏は壱岐島を拠点とした海外交易を一人占めし、志佐氏は壱岐支配を放棄するに至った。
 義の子純勝の時代になると、世の中は下剋上の横行する戦国動乱の様相を見せていた。純勝は有馬貴純と結んで平戸松浦氏の内訌につけこみ、平戸の弘定を攻めて筑前に追った。松浦弘定を庇護した中国地方の大守大内義興は、弘定を支援するかたちで軍事介入してきた。義興は筑豊の軍を動員し、大村・龍造寺両氏に命じて、明応四年(1495)、純勝を攻めこれを追い出すと、平戸領を松浦弘定に返却させた。敗れた純勝は五島に逃れたものの、家臣の反逆によって自殺した。残された松房・徳房の二子は青方氏を頼り、さらに有馬に逃れたというがその後のことは不詳である。

志佐氏の没落と再興

 ここに志佐氏は没落の運命となり、そのあとには松浦弘定の兄弟で田平城主であった峯昌が入って、志佐城主となった。昌改め純本(純元)は長男興信を弘定の養子とし、二男純次を志佐の跡継ぎとした。その後、純次の弟深江純忠が平戸に通じて純次と対立するようになり、ついに合戦沙汰となった。結果は純次が敗れ、平戸と和睦し江迎は平戸領となった。
 純次の長男純正は有馬修理大夫の婿となり、二男の純意は松浦隆信(道可)の婿となった。純正の死後は嫡男の純量があとを継いだが、一門はじめ家臣の多くに背かれ、ついに母とともに有馬へ追放の憂き目となった。そのあとは叔父で、隆信の支援を受ける純意(純元)が継いだ。
 これに対して天正九年(1581)、有馬修理大夫は孫の純量を援けて純意を攻めたが、純量は敗れて有馬に逃げ帰った。これは、純意の政治が正しく行われ、その仁義と武略に諸士、庶民らが従っていた結果であったという。敗れた純量は祖父の叱責を受け、自害して果てたと伝えられる。
 天正十五年、豊臣秀吉の九州征伐に際して、純意は平戸鎮信とともに秀吉に従って島津氏追討に功を立てた。かくして、志佐氏らは豊臣政権に組み込まれた。そして、秀吉の朝鮮侵攻が開始され、志佐純意も出陣の命を受け名護屋城に出向した。ところがにわかに病気となった純意は志佐に戻る羽目となり、朝鮮には嫡子の純高が渡海した。
 志佐に戻った純意は病が癒えず死去し、純高もまた朝鮮において戦死してしまった。その結果、志佐領は平戸領に合併され、志佐氏家中は松浦氏に属した。純高には一子重忠(信昌)があり、成人してのち松浦氏の国家老となった。・2005年4月13日

参考資料:松浦市史/室町幕府守護職家事典 ほか】

●松浦氏の家紋─考察


■参考略系図
 
 


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