●歴史の町さんに紹介された和田惟政
惟政は和田の人で、応和年間(961〜963)甲賀郡の郡司であった源満政17世の孫という。甲賀21家の一つで、他の甲賀武士同様佐々木六角氏に仕え、その縁で足利義輝の供衆となっていたが、永禄8年(1565)5月19日、惟政が和田城に帰っていた時に松永久秀が二条城に義輝を襲って殺し、更にその弟覚慶にもその魔手が及ぼうとした。覚慶は興福寺一乗院の住職をしていたが、松永勢に囲まれているところを細川藤孝らに助け出され春日山を越えて上柘植から和田惟政の屋敷にかくまわれた。
その後惟政は六角義賢の助けを得て覚慶を矢島(現守山市)の少林寺境内に建てた館に移した。覚慶はここで名前を義秋と変え還俗したが、義賢の子の義弼が三好方と内通したため危険を避けるため妹婿で若狭の守護大名である武田義統を頼り、更に越前の朝倉義景の庇護を受けた。義秋は義景に上洛を促すがなかなか応じようとしない。そのうちに義栄が将軍に宣下されて義秋の落胆と焦燥は募るばかりであった。名も秋の字は縁起が悪いと「昭」にかえ義昭と名乗った。
丁度その頃信長は岐阜の統一に成功したので、側近の藤孝は、その頃義昭に仕えていた明智光秀に密書を持たせて信長の所にやり上洛を促した。信長は渡りに船とばかりに直ちに応諾し、使者を義昭に出してまず岐阜に来るように勧めたが、その使者のなかに和田惟政も入っており、信長とのつながりがこの頃から始まっていることが分かる。
和田氏はそれから信長にしたがい畿内の掃討戦に加わり摂津の芥川城主、更に高槻城主ともなり京都所司代にもなった。しかし、元亀2年摂津の池田氏と荒木村重の連合軍と白井河原で戦い戦死する。享年37歳であった。
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