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堤 氏
三つ銀杏
(藤原秀郷流大友氏族)
・堤氏系図に大友氏と同紋とあることから、「三つ銀杏」は「三つ杏葉」の転記ミスかも知れない。また、替紋は「蛇の目」とある。


 堤氏は保元年間(1156〜59)に豊後国日田郡有田郷堤村に住して、堤を名乗ったことに始まるという。そして、堤鑑智のとき大友氏に属するようになり、財津・高瀬氏らと並んで日田郡八大郡老(日田八奉行)の一人として郡内の統治にあたったと伝えられる。一方、大友姓堤氏系図では、大友氏六代貞宗の子久茂が豊後国日田郡を領して堤駿河守を称したとある。貞宗が生きた時代は鎌倉時代末期の動乱期にあたり、久茂は先の堤氏を継いだものと思われる。
 その後、堤氏があらわれるのは久茂ののち数代を経た貞正人道妙光で、寛正三年(1462)、豊後国より筑後国三瀦郡下田に来て館を築き近郷七邑を領した。さらに、応仁二年(1468)彦山大権現を勧請、文明六年(1474)下田に天満宮を勧請するなど領内の整備に意を尽くした。貞正は大友親繁に仕えて信頼を受け、大内氏や少弐氏に対する防備の任を担うとともに、筑後川下流で肥前との国境に位置する下田の支配を委ねられたのである。とくに下田は古代より貿易港として知られたところで、大友氏も下田を拠点とする対外貿易を重視していた。
 かくして、堤氏は豊後から筑後へ移住したが、久茂より貞正にいたるまでの動向は遥として知れない。さらに、その間における系図上の代数も多すぎ、貞正以前の堤氏のことは不明というしかない。他方、堤氏は大友氏から同紋衆としての扱いを受け、大友氏の一族であった傍証ともなっているが、伝わる家紋は「三つ銀杏」であり同紋衆のことはいささか疑問が残るものだ。

九州の戦乱

 さて、九州は鎌倉時代より少弐氏・島津氏、そして大友氏が鼎立するかたちで勢力を誇っていた。しかし、室町時代になると大内氏が鎮西に進出するようになり、少弐氏の威勢に翳りがみえるようになった。筑後守護職は南北朝時代大友氏が任じられたが、その後、今川氏、菊池氏らが任じ、応仁の乱のころよりふたたび大友氏が守護職に任じた。そして、蒲池・問注所・西牟田氏らの在地領主(国人衆)は大友氏の麾下に属した。堤氏も貞正以後、代々、下田村の堤城を本拠として大友氏に忠節を尽くした。
やがて、少弐氏の麾下にあった肥前の龍造寺氏が少弐氏の衰退とともに台頭、隆信は大内氏と結んでにわかに勢力を拡大してきた。かくして、筑後地方は龍造寺氏と大友氏との紛争が続くようになった。永禄三年(1560)、堤貞元は龍造寺氏から妻を迎え、大友氏から龍造寺氏に転じた。これに怒った大友義鎮(宗麟)はただちに下田城を攻撃したが、龍造寺氏の援軍をえた堤方はよく大友勢を撃退し、その後の再三にわたる大友軍の攻撃もよく凌いだ。永禄七年、宗麟みずからが出陣して遮二無二に下田城を攻め立て、これに筑後の国人衆が参陣したため、下田城はまったく孤立してしまった。堤方は防戦につとめたが多勢に無勢、ついに蒲池氏を頼んで大友氏に降伏した。
 元亀元年(1570)、大友宗麟は龍造寺隆信を討伐するため六万の大軍をもって佐嘉城を囲んだ。この今山の陣とよばれる戦いに、筑後勢も出陣、堤氏も参戦したようだ。戦いは寡勢の龍造寺方の夜襲によって、大友方の惨敗に終わった。以後、龍造寺隆信は旭日の勢いをしめし、九州は大友・島津・龍造寺の三氏が鎬をけずる情勢となった。
 やがて、天正六年(1578)、大友宗麟は日向に出陣、高城・耳川において島津氏と一大決戦を行った。結果は、大友軍の大敗北に終わり、以後、大友氏は衰退の一途をたどることになる。大友氏の敗戦は蒲池・堤氏ら筑後の諸将を動揺させ、龍造寺隆信が筑後に侵攻すると堤貞元は隆信の陣に加わって先鋒を勤めている。以後、堤氏は龍造寺氏の麾下に属して、天正十年には隆信の支援を得て上妻郡の辺春城を攻略、弟の伊賀守元茂を城将として配した。

戦国時代の終焉

 龍造寺隆信の威勢はおおいに振るったが、その残忍性を嫌った有馬晴信が島津氏を頼んで龍造寺氏から離反した。天正十二年(1584)、隆信はみずから兵を率いて有馬に出陣、この陣に堤貞元も参加した。龍造寺軍と有馬・島津連合軍は島原の沖田畷において激突、島津家久の周到な作戦によって龍造寺方は大将隆信が討ち取られる惨敗を喫した。貞元も乱戦のなかで討死、一族・郎党のほとんどが貞元とともに戦死した。
 貞元の死後、内蔵助があとを継いだが、沖田畷の合戦による痛手は大きかった。翌天正十三年、筑後恢復を狙う大友軍が来襲してきた。下田城はよく戦ったが、城兵は少なく、ついに堤一族は城を捨てて四散した。ここに、下田城主堤氏は没落の運命となり、内蔵助は龍造寺氏、ついで鍋島氏に仕えて近世に家名を残した。・2007年04月24日



■大蔵氏系堤氏

 堤氏系図によれば、筑前の織田則隆から十二代の通真が保元年間に日田に来て日田大蔵氏に仕え「堤」に居て名を「堤」と称した。更に十代の後 堤筑後守鑑智は大蔵氏滅亡後、郡司織が廃止されると大友氏の幕下となり、八大郡老の一人として郡内の統治にあたった。その後、大友義鑑の命により、同族財津氏を討つことになったが、 逆に討たれる結果となった。
 天正九年(1581)、筑後長岩城の門註所親則は、筑前の秋月種実と共に日田に侵攻した。大友氏は筑後の防備として、かねて日田石井、高井嶽に城砦を構え、時の城代は堤鑑智の弟平右衛門尉であった。平右衛門は大軍を受けて奮戦したが及ばず討死、高井嶽城は落ちた。
 その後の堤城に関しては不明であるが、堤氏の決脈は絶えることなく今だ健在である。 遺構としては本城から二の郭への抜け穴(埋門か)や、一部の空堀、古井戸、馬場などが微かに残っている。

参考資料:三潴町史/城島町史/日本城郭体系 ほか】



■参考略系図  


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