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鳥居氏
竹に宿り雀
(熊野権現神職後裔)


 先祖は紀伊国熊野権現にかかわる神職をつとめ、世に鳥居法眼とよばれた。源頼朝から散所の地頭職を与えられたという。承久の乱後、三河国矢作庄にいたり渡村に住み、以後渡里、または南北朝期新田義貞に属して亘新右衛門と称したともいう。  鳥居氏は松平氏のふるくからの譜代とされるが、忠吉の代まではその事積はよくわからない。忠吉は家康の祖父清康に仕え渡村に住した。清康横死後、今川氏の支配下の岡崎で惣奉行をつとめた。鳥居氏は富裕で、駿府に人質となった家康に呉服・食料を送った。家康の岡崎城帰還時、多数の蔵の中に兵糧を多く貯積しているところをみせ、家康を安心させたという話はよく知られている。三河一向一揆では門徒であったが岡崎城に馳せ参じて一揆方と戦っている。

●近世大名への道程

 鳥居氏ではじめて大名になった元忠は天文八年(1539)の生まれで、家康より三歳の年上である。十三歳のときから家康に近侍し、家康の初陣以来、常に側近にあった。その後、諸合戦では旗本先手の一手役の将として常に先鋒で戦功をあげた。
 天正十年(1582)、徳川氏の甲斐国統治後、甲府城を守衛し、同国郡内の地を与えられた。同十四年、豊臣秀吉が元忠にも官位を奏請しようとしたが、他家の恩恵をうけることをいさぎよしとせず、これを辞している。のちの、小田原の陣では多くの家臣が戦死した。
 関東入国後、下総国矢作城で四万石を領した。慶長五年(1600)、上杉景勝征討のさい、伏見城の留守を預かり、石田三成方の軍勢を相手に死守し、戦死した。このとき、家臣五十七人。従兵七百余人、歩卒数百人がともに戦死している。
 このとき、嫡子忠政は江戸にあって上杉方に備え、関ヶ原には出陣していない。しかし、父の功により慶長七年(1602)陸奥岩城平十万石に封じられた。慶長十九年の大坂冬の陣、元和元年の同夏の陣においても、忠政は参陣を免じられ、福島正則らに備えて江戸城の警固に当たっている。
 元和八年最上氏が改易されると、その遺領五十万石は六大名に分与されるが、忠政は十万石を加増されて山形城に入った。ほかに寒河江二万石を預かり地として、すべて二十二万石を領した。その晩年には二十四万石になっている。そのあとは嫡子忠恒が継いだが、子がなく死去したため二十四万石は改易され、異母弟忠春が信濃高遠三万石を与えられて、鳥居氏の跡を継いだ。


■参考略系図
    



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