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徳島氏
●五葉の根笹
●桓武平氏千葉氏流


 徳島氏は肥前千葉氏の一族で、千葉胤鎮の孫義胤が徳島を称したことに始まるという。千葉胤鎮は家宰中村公廉の謀叛によって当主の座を追われたが、のちに再起して文安二年(1445)、中村氏を倒した千葉氏中興の人物である。
 康正元年(1455)、胤鎮が死去したのち嫡子の元胤が家督を継承した。千葉氏は元胤の時代が全盛期で、小城城下はおおいに賑わったと伝えられている。しかし、元胤は早世し、十四歳の教胤(弟ともいう)が家督を継ぐと千葉氏にも衰退の色が兆してきた。  文明元年(1469)、千葉教胤は大村家親を討たんとして藤津郡に出陣したが、大町江で嵐に襲われ船が転覆、教胤は溺死してしまった。この戦いに教胤の弟胤氏(系図によって続柄は一定しない)も出陣し、辛うじて小城に帰ることができた。教胤には男子がなかったため、従兄弟の胤朝が家督に迎えられた。ところが、重臣の中村胤明と岩部常楽とが反目するようになり、胤朝は胤に味方して常楽を討とうとした。
 常楽は胤朝の弟胤将を擁立し、少弐教尚を味方につけて胤朝らに対抗した。やがて、将軍の旨がくだって、胤朝と胤将は和議を結び一件落着となったが、文明十八年(1486)、胤将が胤朝を殺害して出奔したため千葉氏はにわかに断絶した。この事態に接した少弐政資は、胤朝の女に弟を配し胤資と名乗らせて千葉氏を再興した。一方、胤朝の甥胤棟(興常)が大内氏を頼って育ち、延徳三年(1491)、大内政弘の支援をえて胤資と戦った。こうして、千葉氏は晴気城の胤資と牛頭山城の胤棟(興常)の両千葉家に分かれたのである。
 この千葉宇氏の内訌に際して胤氏がどのような行動を取ったかは分からないが、胤氏の子義胤は「徳島」を称して千葉氏の家臣になった。

大内氏、少弐氏の抗争

 九州は鎌倉時代より大友・島津・少弐の三氏が鼎立して九州を三分していたが、南北朝時代を経て室町時代になると、周防の守護大名大内氏が幕府を後楯として北九州に進出してきた。大内氏は豊前・筑前の伝統的勢力である少弐に抵抗したが、情勢は大内氏の優勢に展開した。
 応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起ると大内政弘は西軍に味方して上洛、西軍の中心勢力として大活躍した。劣勢となった東軍の細川勝元は少弐氏・大友氏と結んで、大内氏の勢力が後退した豊前・筑前の撹乱を図った。やがて、領国の擾乱に危機感を抱いた大内政弘は文明九年(1477)、幕府に帰順すると国元に帰り領国の引き締めに当たった。そして、北九州へも兵を入れると、少弐氏と抗争を繰り返しながら着々と失地を回復していった。
 千葉氏は少弐氏に属して肥前守護代などをつとめていたが、先述のように内訌が生じ、少弐政資(政尚)は弟胤資を婿養子に送り込み、小城郡晴気城主とした。一方、大内政弘は庇護していた胤棟(興常)を送り込み牛頭山城主とした。ここに千葉氏は二つに分かれ、大内氏と少弐氏との代理戦争を行うかたちになったのである。
 その後、大内氏の当主に就いた義興は、明応六年(1497)少弐氏を筑前・豊前から追い払った。さらに、少弐政資を肥前多久において自刃に追い込み、豊前・筑前を掌握すると肥前・筑後への進出を企図するようになった。
 他方、九州三雄の一である豊後大友氏は一族間の内訌に悩まされていたが、大内氏と少弐氏の抗争の間隙をぬって、内訌を克服し戦国大名として飛躍をとげるにいたった。そして、少弐氏が衰退するとともに、大内氏と対決するまでに勢力を拡大したのである。

肥前の戦国乱世

 大内氏の攻勢にさらされる少弐氏をよく支えたのが少弐一族と、龍造寺・小田氏ら東肥前の国人領主であった。とくに龍造寺家兼(剛忠)は、田手畷の戦いにおいて大内軍を撃破する功をあげ、一躍少弐氏の重臣となった。しかし、「出る杭は打たれる」といわれる通り、龍造寺一族は少弐氏の謀略によって一族離散の憂き目となった。  その後、勢力を挽回した龍造寺氏は少弐氏と対立関係となり、剛忠のあとを継いだ胤信(隆信)が当主になると近隣に勢力を拡大するようになった。永禄二年(1559)、隆信は勢福寺城に少弐冬尚を攻め、ついに冬尚を自刃に追い込み少弐氏は滅亡した。
 永禄五年(1562)、大友宗麟は滅亡した少弐氏を復興しようと有馬晴純と謀って少弐政興を擁立した。有馬晴純は出家して仙岩と称し、名将としての名も高く有馬氏を戦国大名に成長させた人物であった。晴純は肥前制覇を狙い、千葉氏・龍造寺氏を倒そうと目論んでいた。翌六年三月、晴純は兵を動かして杵島郡まで攻め寄せた。
 千葉胤連(西千葉氏五代)は、龍造寺隆信に連絡をとり、鴨打胤忠・徳島胤時・持永盛秀らを率いて小城郡丹坂峠に出陣した。隆信も鍋島信房・信生(直茂=千葉胤連の養子だった)らに命じて小城郡高田に出陣させるとともに、策略をほどこして有馬一族の島原弥七郎を柳津留の入江に誘いこんだ。徳島胤時・鴨打胤忠・持永盛秀らの千葉勢は、柳津留の入江に進んできた島原の軍勢を散々に打ち破った。この戦いの結果、肥前の豪族たちはつぎつぎに龍造寺氏に味方し、有馬氏はついに東肥前攻略をあきらめて島原にひきあげていった。その後、千葉胤連は龍造寺氏の客将となって小城郡高田城に配され、徳島氏らは龍造寺氏麾下の部将となった。
 永禄十二年(1569)、大友宗麟は肥前への進出を図ったが、毛利氏が筑前に兵を入れたため和議がなった。その後、毛利氏が九州から撤兵したため、元亀元年(1570)、宗麟は大友親貞を大将として佐嘉城に攻め寄せ今山に陣を布いた。大友の大軍を迎え撃った龍造寺勢は、鍋島信昌(信生・直茂)の献策で今山に夜襲をかけ大友親貞を討ち取る勝利をえた。この勝利で龍造寺隆信の武名があがり、隆信は肥前一国を従え、さらに兵を筑後・肥後・豊前などに進め、大友・島津らと並んで九州を三分する勢いを示し、龍造寺氏の全盛期を現出した。
 天正四年(1576)、隆信は有馬氏の東肥前の前線基地である藤津郡横造城を攻撃した。龍造寺勢は鍋島信房・信生兄弟らをはじめ、犬塚鎮家、横岳家実、そして徳島信盛らが従軍し横造城は陥落した。戦後、鍋島信房が横造城主となり、徳島信盛は藤津郡松丘城主となった。また、一族の徳島胤時は鴨打胤忠とともに小城郡芦刈城の城将をつとめた。
 徳島氏は代々龍造寺氏から室を迎えて、かつ勇猛な部将として「譜代相伝之家人」の扱いを受けるに至った。「譜代相伝之家人」とは、龍造寺家中において鍋島・納富・小川・福地・江副・安住・百武氏らと並ぶ家格であった。

龍造寺隆信の戦死

 龍造寺隆信は破竹の勢いで北九州を席巻し、ついには有馬晴信も隆信に誼を通じるようになった。かくして、「五州二島の太守」となった隆信は、筑後の蒲池一族を謀略で族滅させるなど次第に残忍な一面を見せるようになった。そのような隆信に対して、晴信は嫌悪感を募らせていったようだ。そのような天正九年(1581)、薩摩の島津氏が北進を開始、肥後の相良氏を降して肥後に勢力を伸ばしてきた。これをみた有馬晴信は、龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じると、龍造寺方の深江城を攻撃した。
 天正十二年三月、有馬氏討伐を決した隆信は、みずから三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指した。一方の晴信は島津家に援軍要請を出し、龍造寺軍に備えようとした。島津氏は島津家一の戦上手といわれた島津家久を大将に、精鋭三千を有馬氏救援に派遣した。とはいえ有馬・島津両軍あわせて六千余りの軍勢でしかなく、龍造寺軍に対して劣勢であることは変わらなかった。一策を案じた家久は、決戦場を島原北部の沖田畷に選び、龍造寺軍をたくみに沖田畷へと誘い込んだのである。
 龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、物見も出さずに攻めかかった。龍造寺軍はまんまと島津勢の策にはまって、大将の龍造寺隆信をはじめ多くの将士が戦死した。この合戦において、九州北部に一大勢力を築いた龍造寺氏は衰退を余儀なくされるのである。
 その後、豊臣政権下において龍造寺氏は鍋島氏にとって替わられ、徳島氏も鍋島氏に仕えることになった。秀吉の朝鮮出兵に際して、鍋島直茂は鍋島茂里・成富茂安らを派遣したが、成富茂安の指揮下に徳島四郎右衛門の名が見えている。徳島氏は鍋島氏の家臣となることで、近世へと生き残ったのである。・2005年03月07日→07月07日

参考資料:佐賀市史/武雄市史/芦刈町史 ほか】

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■参考略系図
 
 


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