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種子島氏
●三つ鱗
●桓武平氏清盛流/多禰直後裔?
 


 種子島氏の祖は平清盛の孫行盛の子信基に始まるというのが定説となっている。すなわち、行盛の子がその母とともに鎌倉に逃れていたところを北条時政に助けられ、その養子となり時信と名乗った。時政の執奏によって種子島に封ぜられ、深川院および財部院を兼領し、信基と改めたという。
 種子島氏の系譜では、この平行盛後裔説が信じられており、信基が北条時政の養子となってはじめて種子島氏を称するようになったということになっている。しかし、平行盛の子といい、北条時政の養子の件といい、それを裏付ける史料はない。また、初代信基は時政の口添えで、多禰島・屋久島・口永良部島など十二島を与えられたというが、当時の多禰島地頭は大浦口氏で、代官として上妻氏が在島していたことが知られる。
 ちなみに『種子島家譜』が引用している南北朝期ごろまでの文書には、「種子島」姓のものはなく、ほとんど「肥後」姓である。種子島氏の事蹟が明かになってくるのは、南北朝期の時基からで、時基は観応二年(1351)足利尊氏方の畠山直顕から肥後一族が畠山方となったことをたたえる文書を与えられている。ついで、文和二年(1353)、将軍足利義詮から肥後左近将監へ日向凶徒退治を告げる文書が、また、九州探題の今川了俊から多禰島殿へ文書が送られている。この左近将監、多禰島殿は時基の子時充であり、表記は多禰島だが「種子島」が姓として登場したはじめである。
 鎌倉時代に大隅国の守護であった北条氏とその一族である名越氏が、種子島地頭職を合わせて知行するようになってから、被官肥後氏が守護代として現地に派遣された。その後、肥後氏は種子島に土着し、諸職を自己のものとし、次第に在地領主に成長していった。そして、南北朝時代に至って島名「種子島」を名字とするようになったものであろう。

種子島氏の勢力拡大

 さて、南北朝時代の種子島氏は、武家方畠山氏に属して活躍していたが、畠山氏と対立した島津氏との関係も深めていったようで、貞治五年(1366)、時充の嫡男頼時は島津氏久方で戦死している。島津氏は九州探題として九州に赴任してきた今川了俊にはじめは協力的だったが、水島の陣における少弐冬資謀殺事件をきっかけに了俊と対立するようになった。
 了俊は南九州の諸領主を取り込み、島津氏の勢力を弱めようとした。それは種子島氏にも及び、種子島氏が望む「種子島」を名字とすることを認めたのである。名字とは自己の支配する土地の名をあらわすものであり、種子島の名字は種子島全島を支配することを公認されたことでもあった。種子島氏の誕生には、九州における覇権をめぐる探題今川了俊と南九州の実力者島津氏の争いが背景にあったのである。
 しかし、種子島の地頭職は、建武三年(1336)より貞治二年(1363)まで、島津氏の領有するところであった。種子島氏が全島を領有するためには島津氏から地頭職を譲ってもらうことが必要であり、それは正式文書で行われるべきものであった。ところが、それに関係する文書は存在しないのである。『上屋久島郷土誌』には、種子島は鎌倉時代のはじめより種子島氏が領有していたという考えから、抹殺したものであろうと記されている。おそらく、その通りであったろうと思われる。
 明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、応永二年(1395)には九州探題今川了俊が職を解かれて京都に召還された。かくして、九州は新たな時代を迎えたのであった。種子島氏は島津氏に属して種子島の支配を進め、応永十五年(1408)、清時は島津元久から屋久・永良部を与えられた。さらに、応永年中に口の三島を与えられ、種子島氏は種子島周辺の島々も所領に加えていったのである。しかし、その支配は確実なものではなく、島津氏から取り上げられるということもあった。そして、十五世紀の後半にいたって、種子島・屋久島ほかの諸島を支配する種子島の支配体制が確立したようだ。

戦国乱世を生きる

 応仁元年(1467)の応仁の乱をきっかけとして、世の中は戦国時代へと移行していった。戦国の動乱は、南北朝時代を生き抜き室町時代に成長をとげた有力在地領主らが、たがいに自己の所領保全と拡大をめざして合戦を繰り広げた。それは、種子島氏が位置する南九州も例外ではなかった。
 南九州の実力者は鎌倉時代より島津氏で、南北朝の争乱期において島津氏は地頭層を被官化して、室町時代になると大隅・薩摩両国の守護としてその威勢はおおいに振るった。しかし、そのかげで一族間の抗争があり、国人領主層の一揆が起こるなどして、戦国時代のはじめのころには衰退の色を濃くしていた。十六世紀になると、島津氏は守護勝久と養子貴久との間に抗争が展開された。情勢は貴久の父忠良の活躍で、勝久方が不利であった。この島津氏の抗争に対して種子島恵時は、貴久方に味方して天文七年(1538)の加世田城攻めには家臣を送って加勢し、翌八年の市来城攻めにはみずから出陣して軍功をたてた。
 ところで、種子島氏は禰寝氏とはいろんな意味で、深い関係があった。南北朝期の中ごろまで、種子島の地頭職をめぐって肥後氏は禰寝氏と争った。禰寝氏は大隅半島の古くからの有力国衆であり、種子島における諸職を有していて、勢力拡大を企図する種子島(肥後)氏と対立した。しかし、室町時代になると時氏は禰寝家清の娘を室とし、恵時の姉は禰寝尊重に嫁ぐという具合に姻戚関係を結ぶようになった。
 ところが、天文十二年、奢侈を諌めた弟の時述を恵時が疎んじたため、時述は禰寝清年*に通じて兄を攻撃した。恵時は屋久島に逃れ、嫡男の時堯は禰寝軍に敗れて自害を覚悟したが、清年は恵時の悪政を正すことが目的で、時堯は関係ないとしてこれを許した。しかし、屋久三郡のうち一郡を合戦による犠牲者のためとして要求した。このとき、時堯は一計を案じて、屋久三郡すべてを清年に譲渡した。すなわち、三郡を与えれば、禰寝氏の守備兵は散在することになり、のちの奪還に際して都合がよいと考えたのである。
 翌年、恵時は肥後下野守時典に命じて屋久島の禰寝勢を攻撃した。禰寝勢は防戦したものの寡勢であり、ついに時典の降伏勧告を受け入れて城を開いた。禰寝勢は与えられた船に載って大隅半島へと向かったが、その船には細工が施されていて、たちまち浸水、転覆して禰寝勢は全滅した。かくして、種子島氏は屋久島の奪還をはたした。
史料などでは、攻めてきたのは重長とあるが、この年重長は八歳の幼児で、家督も継いでいなかった。したがって、このときの禰寝軍を指揮したのは清年とみるべきであろう。

鉄砲の伝来

 種子島氏が禰寝氏の攻撃を受けた天文十二年、種子島の西村小浦というところにポルトガル船が漂着した。その乗組員を引見した島主種子島時堯は、乗組員が持っていた鉄砲のうち二挺を買い上げ、火薬の調合を家臣に学ばせた。これがいわゆる鉄砲伝来として知られる歴史的事件である。
 種子島氏家中の侍たちは、使用法を習い、製造法を教わったが、銃身、銃底部分などの加工技術に不明な点があった。すなわち、発射から着弾までの精度をあげるには銃身の内側に螺旋状の条溝を刻み付けることが必要であり、銃底部分はねじを切って蓋をしなければならない。しかし、そのような知識は当時の日本にはなかったため、種子島鍛冶らによって、改良・研究がなされ、ついに国産の火縄銃が完成したのである。その間、鍛工八坂金兵衛は娘をポルトガル船長に娶せて、鉄砲作りの秘伝を得たと伝えられている。以来、火縄銃は「種子島銃」として広まった。
 時堯は種子島銃を島津貴久に献上し、貴久はさっそく天文十八年五月、加治木城攻めに当たって鉄砲を用いた。これが、わが国における鉄砲の実戦使用のはじめであった。こうして種子島銃は、戦国の新兵器としてまたたくまに有名になり、島津氏の三州統一は鉄砲のお陰であったとさえいわれている。また、近衛前久を介して火薬調合の秘法を伝授してほしいという将軍足利義輝の要請をいれて、時堯は秘法を将軍に伝えている。
 ところが、秘伝であるはずの鉄砲薬調合法が、義輝から上杉謙信に伝えられたことを暗示する文書が「上杉家文書」の中におさめられている。これは、上杉家の力を背景として将軍家再興をめざす義輝が、謙信の歓心を買うために秘伝という禁を破って伝えたものと解されている。いずれにしても、種子島銃の出現によって、合戦のありかたは大きく変化し、戦国乱世は統一へと大きく前進したことは疑いない。

島津氏の麾下に属す

 天文十二年の戦い以来、種子島氏と禰寝氏との間で戦いが繰り返された。十六世紀のなかごろ、薩摩・ 大隅・日向の統一を進める島津氏に対して、有力国衆である蒲生氏、肝付氏らが対立した。禰寝氏は肝付氏と結んで島津氏に対抗しており、種子島時堯は島津忠良の娘を室に迎えていて島津方であった。時堯は島津氏麾下として、弘治元年(1555)、島津貴久に従って蒲生攻めに出陣、ついで日向伊東氏との合戦、同三年にはふたたび蒲生攻めに参陣している。そして、永禄三年(1560)家督を嫡男の時次に譲ったが、時次が早世したため、ふたたび家督となった。
 永禄九年(1566)禰寝重長が屋久島に上陸し、一方で口永良部島を攻撃した。口永良部島は禰寝方に占領され、屋久島の一湊も制圧されたようだ。元亀年間(1570〜)になると、禰寝氏は伊地知、肝付氏らと結んで、兵船三百余をもって海路鹿児島に押し寄せた。さらに『種子島家譜』には、「元亀年中、禰寝氏、肝付氏、伊地知氏らが太守に叛きて冦を為す、彼の四家の海賊のために種子島と鹿児島とを往来の船を掠められること四十艘ばかりなり(後略)」とあり、禰寝氏らの反島津行動に種子島氏も被害をを被っていた。
 禰寝氏の攻勢に対して時堯は、西村時典・上妻家続らに命じて屋久島永田城を補強するなどして、対抗策を講じている。しかし、天正元年(1573)に至って、重長が島津氏と和を講じその麾下に属したことで、禰寝氏と種子島氏との抗争も終結した。
 時堯は天正七年(1579)に没し、そのあとは二男の久時が継いだ。久時は義久に属して、天正八年の肥後攻め、十二年の肥前攻め、十四年の筑前攻めなどに家臣を派遣した。そして、義久の豊後攻めにはみずから参陣して戦功があった。かくして、島津氏の九州統一戦が進められ、種子島氏もその作戦に協力してきたが、豊臣秀吉の九州征伐によって島津氏は大隅・薩摩・日向の一部を領する豊臣大名に位置付けられた。

戦国時代の終焉

 天正十八年、秀吉の小田原攻めが行われると、久時も大坂に上ったが秀吉から軍役を免ぜられ、代わって鉄砲を上納した。つづいて文禄から慶長にかけての朝鮮出兵には、みずから四次にわたって出陣している。そして、文禄四年(1595)の所替えで種子島・屋久島から薩摩国知覧院に移された。慶長三年(1598)に島津氏の家老となり、翌年の庄内の役に参陣、同年、知覧院から種子島・屋久島に戻された。しかし、すでに自立した領主ではなく、島津氏重臣の種子島氏に過ぎない存在であった。
 慶長五年の関ヶ原の合戦、同十四年の島津氏による琉球攻めには家臣を派遣した。慶長十六年、久時は四十三歳を一期として世を去った。そのあとは嫡男の久基が継ぎ、子孫は島津氏の重臣として続いた。・2005年4月6日

参考文献:種子島氏家譜/三州諸家史・薩州満家院史/上屋久島郷土誌 など】



■参考略系図
 
 




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