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志賀氏
梶の葉
(清和源氏諏訪氏流か)


 志賀氏は何鹿郡吾雀庄に勢力を張った、丹波の中世国衆の一である。
 伝来する「志賀系図」によれば、清和源氏後胤信州諏訪城主諏訪因幡守政頼の孫諏訪帯刀頼宗が応永二十五年(1418)に諏訪より丹波何鹿郡に来住、志賀城を築き志賀氏を名乗ったという。一方、武内宿弥の流れという系図も伝来している。
 残された記録などから室町時代の中ごろより動向が知られるようになり、戦国期には四流に分かれて活動していることが知られる。 志賀氏の出自は不明なところが多いが、先の志賀系図にあるごとく応永のころに遠く信濃国から丹波国に来住した武家であったとしても、その 背景となる理由が判然としない。
 応永のころの信濃の情勢をみると、守護職小笠原氏と国人一揆とが対立した「大塔合戦(1400)」が勃発、敗れた小笠原氏は 守護職を解任された。その乱に、諏訪一族は国人方に加担して行動した。その後、「上杉禅秀の乱(1416)」に活躍した 小笠原政康が信濃守護職に返り咲き、諏訪氏は政康に従って「結城合戦」などに出陣した。その一連の動乱期に志賀氏の祖に 比定される頼宗の丹波来住となる原因があったのではと想像される。戦功により丹波国に所領を得たか、逆に信濃に居づらいことが生じて同族という物部庄の上原氏を頼って 丹波国に下向したものか。

志賀氏の足跡

 さて、吾雀庄に根を下ろした志賀氏は北野城(志賀城)あるいは天王山城の城主となったもの、丹後国田辺郷の代官職になったもの、吾雀庄山尾の領主になったものがあらわれ、何鹿郡西部に志賀一族は分流してそれぞれ在地領主化していったようだ。
 北野城主家は頼宗の流れのようで、鎮守として諏訪神社を勧請するとともに、城山の台地に菩提寺の北野山養源寺を創建した。領主として民政にも力を注ぎ、城の北東の谷に築造した北野池はいまも貴重な水源として利用されている。

天王山城に登る

天王山城を遠望・山上曲輪への城道・山腹の曲輪と切岸

山上曲輪の切岸・登り土塁と切岸・横堀状の地形


 山尾領主家は残された文書から永正九年(1512)に志賀八良右衛門尉が近江守行秀なる人物より吾雀庄之内山尾村「田畠山林并下人等事一円」を譲渡され在地領主化したようだ。また。丹波守護細川高国に仕え、享禄二年(1529)次良右衛門尉は丹後国田辺郷の代官職に任じられたようだ。その二年後の享禄四年、次良右衛門尉の嫡男四郎兵衛尉は足立・波々伯部・細見・牧氏らと高国に従って摂津の戦い(大物崩れ)に出陣、討死している。次良右衛門尉は二男の五良左衛門尉とともに田辺にいたようで、その後、高国と対立していた細川晴元に属して各地を転戦、五良左衛門尉は晴元から感状を与えられている。天文二十二年、次良右衛門尉は討死、五良左衛門尉は山尾に帰って帰農したという。
 一方、北野城主家は頼宗九代の孫政綱のとき、明智光秀の丹波攻めに遭い、その配下となった。天正十年、山崎の合戦に光秀に従って出陣し、討死したといわれている。政綱の子頼久は乳母の里・加佐郡桑飼村にのがれた。その後、帰農して長助と名乗り、現在も子孫が続いているという。

志賀氏の家紋

 丹波志賀氏が祖とする諏訪氏は信濃一宮諏訪神社の大祝で、その家紋は諏訪神社の神紋と同じ「梶葉」であった。志賀氏の家紋について先の系図には「梶の葉を家紋にする」と記されている。
 志賀氏が拠ったという北野城址などが残る何鹿郡志賀郷を訪ね、綾部市内に散在する墓地にお邪魔して志賀家の家紋を採取すると、「梶の葉」「五本骨扇」「丸に三つ引」などが用いられていた。また、福知山市の観音寺には志賀家の株墓地があり、そこの墓石には挙って「丸に三つ引」が刻まれていた。丹波の志賀氏が家伝の通りに諏訪氏の子孫であれば、「梶葉」紋が定説通りということになるのだが確証を得るにはいたらなかった。もっとも、志賀氏の場合、竹内宿祢を祖とする系図も伝来するということであれば、家紋も「梶葉」紋とは限らないということだ。


左:桑飼集落の志賀家  右:桑飼集落の芦田家

 北野城主志賀政綱が山崎の合戦で討死したのち、遺児の某が乳母に連れられて志賀郷より逃れ住み着いたという旧加佐郡桑飼に志賀家を探した。すると、桑飼集落には志賀名字が集中して存在していることを知った。早速、志賀家の家紋を探して集落の墓地を訪ねると、志賀名字の墓石を発見、家紋はと見ると「梶の葉」であった。桑飼には十軒ばかりの志賀名字の墓所があり、こぞって「梶の葉」紋が刻まれていた。おそらく、遺児某の後裔にあたる家々であると思われ、伝承通りに「梶の葉」紋が現代に伝えられていたのだった。
 ちなみに、桑飼集落には探し求めた志賀名字以外に「佐藤」「新宮」などの名字があり「梶の葉」紋を用いられ、志賀家との関わりが感じられたのだった。さらに丹波に多い「芦田」名字もあり、家紋は丹波の芦田さんと同じ「雁金」紋を用いる家と「違い鷹の羽」を用いる家とがあった。丹波志賀郷とは山一つ隔てた丹後桑飼集落は、丹波との関係を強く感じさせるところであった。 2020.11.20

■参考略系図
・後裔の方の家に伝わる系譜
清和源氏後胤信州諏訪城主諏訪因幡守政頼二男(諏訪兼頼の弟)諏訪左衛門尉忠政(明徳三年八月十五日諏訪に通夜す夢に得梶の葉を家紋とす)の嫡子諏訪帯刀頼宗応永二十五年信州諏訪郡より丹波何鹿郡に来りて志賀城主となる依って志賀氏と改む是を志賀氏の元祖とす志賀城に居ること則ち応永二十五年より天正十年まで九代にして一百六十五年間
初代志賀城主帯刀頼宗、二代左衛門尉政勝、三代帯刀長政、四代左衛門頼平、五代左衛門直政、六代左衛門頼元、七代帯刀秀政、八代左衛門政光、九代因幡守政勝以上 其間、居城の東南に菩提寺を建立し養源寺と号す、後に寺号を地名として末世迄其地を養源寺と云う
天正十年明智日向盛光秀に属し山城国山崎に於て一族不残戦死す依て志賀譲滅亡す、此時九代政勝の一子亀千代乳母と共に丹後原邑に遁れ成長の後に長助と改名す則ち岡田荘志賀(以下欠け)


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