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大槻氏
結び雁金
(清和源氏井上氏流か)


 大槻氏の出自は、一説によれば清和源氏井上氏流という。井上氏といえば信濃源氏の一であり、氷上郡の芦田氏、赤井氏らと同族ということになる。しかし、信頼に足る系図が伝来していないこともあって実際のところは不明というしかない。鎌倉中・末期頃、丹波国何鹿郡高津荘に入部して土着し、南北朝期には北朝方に与して行動したらしい。『大槻旧記』によれば、大槻右馬頭清宗が足利尊氏に従い、何鹿郡・天田郡の地頭職となったとあるが他に傍証がない。
 八田盆地に聳える独立丘陵高城山八田盆地に聳える独立丘陵高城山に残る高城城は、南北朝期、何鹿郡に勢力を持った大槻一族の左馬頭清宗が築いたといわれる。そして、高槻城主・八田城主・栗村一尾城主・大畠城主・高津城主などに一族が蟠踞したが、これら大槻氏の出自や同族関係については諸説があって明らかでない。いずれにしろ、何鹿郡南西部に数多の足跡を刻む大槻氏ではあるが、そのはじめから室町期の詳細な事績は不明というしかない。
 大槻氏が確かな史料に出るのは、『観音寺文書』の文明十一年(1479)高津観音寺への土地寄進状にみえる大槻豊前入道盛雅が初めである。大槻盛雅は田壱段廿五代を「御屋形様御祈祷四季簑摩供のため」に寄進すると述べ、翌文明十二年に霊供田として田壱段を寄進するにあたり、「右の田は盛雅重代相伝の地なり」としている。この寄進状からみて、大槻盛雅家が前々から高津に住んでいた有力な名主であり、文明のころより丹波守護細川氏の被官となっていったものとであろう。

戦う大槻氏

 延徳元年(1489)、丹波守護代上原氏の横暴に反発して一揆を結んだ国人衆が起こした「位田の乱」の中心となったのは、荻野・須知、そして大槻氏らであった。『楞厳寺縁起』に、「延徳元年(1489)大槻・荻野両氏が位田城に拠って守護代上原氏に叛く」と記されている。この大槻氏は高津城主か八田城主か不明だが、上原氏に対抗する有力国衆であったことが知られる。乱は守護方によって鎮圧されたが、大槻氏は勢力を保ち、位田・栗村方面に地盤を固めていった。


南東より位田城址を見る・南方、由良川越しに見た位田城址
大槻氏ゆかりの山城
位田城栗城址高城山城高津八幡山城甲ヶ岳城址


 その後、永正二年(1505)には大槻筑前守が、天文十七年(1548)には大槻長門守が守護代内藤氏より安国寺の保護を命じる下知状を受けている。大槻氏が何鹿郡代か、それに近い地位にあったことをうかがわせる。天正二年には大槻監物丞吉高が観音寺へ重代相伝の畠を寄進しており、高津八幡宮には天正年中に没したという大槻安芸守辰高の画像が残されている。
 また、享禄四年(1531)前の管領細川高国が播磨の浦上村宗と結んで、細川晴元を擁する三好之長と戦った摂津天王寺の戦いに出陣した丹波武士について『横山硯』は、「享禄四年京詰の折節摂津尼ケ崎の合戦日々増長せり、是によって細川高国殿討手に仰付けらる。此時天田郡にては横山の城主小笠原大膳頼氏・奈賀山隈岐守長頼、何鹿郡にては大槻右京太夫信高・波々伯部伊勢守、笹山の八上城主波多野両家等、各細川公の幕下に属し尼ケ崎へ討出云々」と記している。硯の記述はそのままに受け取れない所もあるが、大槻氏は高国方として出陣したようだ。戦いは高国方の敗戦となり高国は自害、足立・波々伯部・細見・牧氏らが討死した。
 永禄年間になると栗村に一尾城(栗城)を築き、丸山城に一族を配して何鹿郡南西部を押さえる有力な在地領主となった。『東栗村城山軍記』によれば、永禄三年(1560)三月、高浜城主の逸見駿河守宗近が軍勢五千余騎をひきいて田辺から何鹿郡に攻め入って来た。逸見駿河守は上林十倉の渡辺内膳道春、山家の和久左衛門丞時宗らを降し、大島から由良川を渡り、小貝・館を迂回して沢野ケ原に陣した。これを迎え撃った一尾城主大槻佐渡守時春は逸見勢と激戦を展開、大槻方の敗色が濃かったが大槻氏の客将村上蜂之助のめざましい働きにより若狭軍は敗退したと記されている。

国衆、大槻氏の最期

 大槻氏の歴史を編年的にたどることは難しい状態にあるが、戦国末期には八田・栗・高津などの山城群を築き、在地領主として自立していたことは間違いないところであろう。そして、天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めが起こると、大槻氏らは黒井城主の荻野赤井直正に属してこれに抵抗、敗れ去ったようだ。
 一方、「綾部市史」によれば、天正三年九月、光秀は自ら軍を率いて柏原に布陣、黒井城を攻めた。明智に与した八木城主内藤備前守宗勝は、天正四年二月、高津の城主大槻氏を攻め、つづいて栗城を押えてのち、山家城主和久氏と戦って戦死したという。また、天正2年(1574)高城城主大槻清政の子、大槻大学のときに織田信長の部将明智光秀によって滅ぼされたというが、年代に矛盾がある。『大槻旧記』では八田城主の大槻清勝は豊臣秀吉・秀頼に仕え、大阪夏の陣で討死したと伝えている。

大槻氏の家紋

 いまも綾部市南西部から福知山市の東部にかけて大槻名字が濃密に分布している。それら大槻名字の家紋を調べると、「結び雁金」「檜扇」「三つ柏」「橘」などが用いられている。結び雁金・檜扇紋は、大槻氏が国人一揆に加わって籠城した位田城跡、栗村大槻氏の主城一尾城(栗城)、高津大槻氏が勢力を有した由良川南部に多い。大槻氏の出自説の一つにあげられる清和源氏井上氏流の代表紋は「雁」であった。同じく井上氏流を称する丹波の芦田氏、赤井氏らも「雁」紋を用いており、中世の大槻氏は「雁」紋を用いていたと想像されるが裏付けとなる史料はない。
 
 ところで、最近眼福に預かった一本「大槻氏系図」に大槻氏の家紋に係る記述があった。それによれば、先祖大槻判官為貞の紋は「雁」とあり、その末孫兼九郎為行は「聖徳太子の後裔月明親王に供奉して功があり「大月」姓を賜った。また月明親王の御紋「月輪の内檜扇」を略した「五本骨扇」を賜り紋所と定める、「一つ雁」は先祖大槻判官より伝え、「三つ巴」を裏紋に定める」と記されている。系図の記述はそのままには受け取れないものだが、大槻氏が「雁金」と「扇」を用いていた傍証の一つにはなるのではなかろうか。

■参考略系図
・調査中


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