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田北氏
●抱き杏葉
●藤原氏秀郷流大友氏族
田北氏は黒鳥八所大明神を守護神とし、それによって烏を替紋として用いたという。


 田北氏は大友氏の一族で、大友能直の孫親泰を祖とし、豊後国直入郡田北村が本領である。初代の親泰は、父親秀から豊後国直入郡田北村地頭職・速水郡日差荘地頭職を譲与され、田北を称するようになった。さらに親泰は、肥後国味木荘・福富荘地頭職、税所公文職・国侍所司職も譲与されている。
 田北氏の系図は二代目を頼元とするものと、義村とするものの二種類がある。親泰は文永六年(1269)に豊後国内の所領を頼元に譲り、二年後に将軍家から安堵されている。元冦に際して頼元は弟の親元・親氏らと出陣して活躍、その恩賞として櫛来浦地頭職を宛行われている。頼元は永仁元年(1293)に譲状を作成したことが知られ、田北氏の二代が頼元であることは疑いないことである。
 一方の義村とは三浦義村のことで、北条氏と並ぶ鎌倉幕府の重鎮であった。親泰の母は三浦一族である家連の女であり、その関係から所領などの譲渡があって、土地の相伝のことが系図に記されたものと思われる。頼元のあとを継いだ親広は、永仁三年に叔母の夫三浦四郎を殺害したため所領を没収されている。のちに所領は戻されたが、事件の原因として土地をめぐる争いがあったのだろうか。いずれにしろ、田北氏は三浦氏と深い関係を有していたものと想像される。

■田北氏初期参考系図

惣領制の崩壊

 鎌倉時代末期、後醍醐天皇による正中の変、元弘の変が起り、元弘三年(1333)、鎌倉幕府は滅亡した。この動乱において大友貞宗は、鎮西探題北条英時を滅ぼす功を立てたが、田北親広は上洛して足利高氏に属して軍功をあげている。
 南北朝時代は、一族が南北に分かれて戦う例が多かった。これは、惣領制による相続方式から、嫡子単独相続方式に変化したことに原因があった。譲渡すべき土地には限度があり、惣領制のままでは惣領の支配は後退せざるをえなかった。ために、惣領を中心とする新たな支配体制の確立が求められたのである。しかし、それは庶子にとっては肯定しがたいものであった。その結果、それぞれが自分にとって都合のよい勢力に結びついて、互いに抗争したのである。
 大友氏も例外ではなく、大友貞宗は家督を五男に譲ったため、長男の貞順らは反乱を起した。宗家大友氏の内訌は、一族や国人衆らも巻き込んで武力抗争となった。この情勢に田北氏も惣領泰直と庶子家が対立関係となり、庶子家は貞順に味方して乱の終結とともに滅亡した。
 九州の南北朝の対立は、はじめ懐良親王と菊池武光の活躍で南朝方が優勢であったが、今川了俊が九州探題として下向してくると、次第に北朝方優勢に展開していった。そして、明徳三年(1392)、足利義満により南北朝の合一がなり、半世紀に及んだ動乱に終止符が打たれた。

戦国乱世への序奏

 南北朝の動乱において守護は一族や国衆を統率して戦陣に赴いたことから、動乱の過程で新たな主従関係が生まれ、ついには一族や国衆を被官化して守護大名へと成長していった。そして、南北朝の合一がなったのち、守護大名の家督をめぐる争いが全国で起るようになった。大友氏でも家督をめぐる骨肉の争いが起り、それに大内氏との博多をめぐる争い、幕府との対立が加わり、田北氏も大友氏の動向に翻弄された。
 大友氏が内訌に揺れたときの田北氏の当主は親増であった。親増は親直の子というが、その出自は不明なところがあり、田北氏の庶子家から出て惣領家を継いだ人物とみられている。応永三十年(1423)、大友親著は従兄弟の持直に家督を譲ったが、親著と持直は田北蔵人と田北親増に書状を送って田北氏を懐柔している。このころ、田北氏内部で家督をめぐるトラブルがあったようだ。おそらく、親直は子をなさないまま死去し、そのあとをめぐって一族間に擾乱があったのであろう。
 永享三年(1431)、大友持直は少弐満貞と結んで大内盛見と戦い、盛見を討ち取る勝利をえた。盛見は幕府からの信頼もあつく、北九州の将軍料所の代官にも任じられていた。盛見の戦死を知った幕府は、持直の追討を命じた。加えて、大友氏の家督を親綱に安堵したため、大友氏は二分してしまった。永享七年、幕府からの討伐軍を迎えた持直は姫岳城に拠って応戦した。この持直軍のなかで、もっとも活躍を示したのが田北親増と親景の兄弟であった。
 大友親綱は田北兄弟への降伏勧告を行い、幕府も兄弟に本領安堵をもって降伏を勧誘してきた。このとき、親増の嫡男親忠は攻撃軍に加わっており、ついに親増と親景の兄弟は持直を見限って幕府方に転じた。かくして、持直が拠る姫岳城は幕府軍の前に落城、持直はいずこかへ出奔した。この姫岳の戦いののち、親増の消息は史料上からまったく知られなくなる。

大友氏の重臣として活躍

 戦国時代のはじめ田北氏は親員の登場で、大友氏の重臣としての地位を確立した。親員は大友義長・義鑑の二代に仕え、永正十三年(1516)の朽網氏の乱に際して、朽網親満党を討つため宇佐郡の武士らに工作を行い、翌十六年には高崎城に拠る親満を攻撃した。
 大永六年(1526)、佐伯栂牟礼城主の佐伯惟治が肥後の菊池義武や筑後の星野親忠らと結んで、大友義鑑に叛旗を翻した。義鑑は臼杵長景に討伐を命じ、翌大永七年に田北親員は嫡男の鑑生とともに東西一揆を率いて出陣し乱の鎮圧に活躍した。翌享禄元年(1528)、大友氏と大内氏の講和が破れ、義鑑は豊前国への出陣準備を進めた。
 以後、豊前・筑前をめぐって大友勢と大内勢との間に小競り合いが続いた。天文三年(1534)、大内義隆は陶興房、杉長門守を大将とする軍を豊前に送った。対する大友義鑑は、吉弘石見守氏直、寒田三河守を主将として大内勢に対峙させた。戦いは勢場ヶ原で展開され、血気にはやる吉弘石見守は大内勢めがけて突進、寒田三河守・広瀬美濃守らがこれに続き、ことごとく大内方に討ち取られてしまった。そこへ、大友の別働軍が駆け付け、激戦のすえに大内軍を撃退した。この戦いにおいて、田北鑑生は大友軍の勝利に貢献した。
 その後、親員は筑後を転戦し、一族の城後親興を失う犠牲をはらっている。天文七年には、山下長就・臼杵鑑続とともに、義鑑の使節として大内義隆との和睦交渉に当たった。親員は大友氏の重臣として、政戦ともに活躍を示し、天文九年に死去した。
 親員には鑑生・鑑富・鎮周ら三人の男子があった。親員のあとは鑑生が継ぎ、天文十九年二月から永禄四年(1561)三月ころまで大友義鎮の加判衆をつとめた。


乱世を生きる

 田北鑑生は府中に居を構え、大友義鑑に側近として仕えた。天文十九年、二階崩れの変が起り義鑑が横死するという大事件があった。原因は、大友氏の家督をめぐるもので、争乱を鎮圧した嫡男の義鎮が大友氏の家督を継承した。死に臨んだ義鑑は義鎮に遺言状を残したが、そのなかで田北鑑生は一万田鑑相・臼杵鑑連・吉岡長増・小原鑑元と並ぶ奉行のひとりとしてみえている。
 ところで、大友氏の家中は一門である同紋衆と、大神氏・清原氏ら他姓衆とに二分されていた。そして、大友氏の重職である加判衆の構成比は、同紋衆がつねに多数であった。さらに、大友氏の権力が確立するにつれ、同紋衆が優遇されるようになった。このような大友氏の治世に他姓衆の不満が募り、弘治二年(1556)五月、他姓衆の実力者小原鑑元が佐伯惟教・賀来紀伊守・中村長直らを語らって大友義鎮(宗麟)に対する謀反を計画した。
 鑑元らの計画を察知した義鎮は、志賀鑑綱・戸次鑑連・田北鑑重らに小原一党の討伐を命じた。これに田北鑑生も参加し、田北氏は玖珠郡衆野上氏らとともに出陣、乱の鎮圧に活躍した。この乱に際して義鎮は反逆の疑いのある大身の家を焼き払い、家族家臣を滅ぼし、双方の戦死者はは七千人に及ぶ一大争乱となった。
 一方、天文二十年、大内義隆が重臣陶氏の謀叛で自害し、陶氏も弘治元年(1555)に毛利元就と戦って滅亡した。ついで、弘治三年には晴賢に立てられていた大内義長を滅ぼした毛利元就が、一躍中国地方の覇者に躍り出てきた。かくして、毛利氏はかつて大内氏が支配していた豊前・筑前方面に進出しくるようになる。この情勢の変化に対して、これまで大友氏に従っていた領主らのなかで毛利氏に通じる者も出てきた。
 弘治三年(1557)の夏、筑前の秋月文種、筑紫惟門らが大友氏に叛旗を翻した。義鎮はただちに田北・戸次・志賀らを将とする大軍を送り、秋月氏は討たれ、筑紫氏は毛利のもとに逃れて争乱は鎮圧された。この乱ののちに、鑑生は筑後の方分に登用され筑後に移ったようだ。永禄四年(1561)、門司城をめぐる戦いが起り、大敗を喫した大友勢は退却するところを追撃され、多くの将兵を失った。この戦いに三軍の将として参陣していた田北鑑生は、乱戦のなかで討死したと伝えられている。

変転をきわめる乱世

 鑑生の死によって、田北氏の家督は鑑重(鑑富)が継いだ。鑑重は鑑生の子というが、実は弟で男子のなかった兄のあとを継いだものと思われる。鑑重はのちに紹鉄を号すが、こちらの田北紹鉄の方が有名である。
 永禄五年(1562)九月、田北紹鉄は対毛利戦に際して、宇佐宮に戦勝祈願を行い、翌年十月、戸次鑑連の指揮下にあって門司城を攻めた。ついで同八年六月、豊前の長野筑後守討伐では都甲・恵良・長野氏、山香一揆と同陣、九月、三ケ岳城を破却した。
 永禄十二年、小早川隆景・吉川元春らが筑前に攻め込み、立花城を守っていた田北鑑益が討死した。四月には毛利元就が豊前門司に到着したため、田北紹鉄は戸次・奈多・木付氏らとともに出陣、毛利氏に備え宗麟の命によって田川郡に駐屯した。
 毛利氏との抗争に手を焼いた宗麟は一計を案じ、豊後に庇護していた大内輝弘を山口に帰還させ、さらに尼子の残党を使嗾して毛利氏の後方攪乱を謀った。これにはさすがの毛利氏も窮し、大友氏と和議を結ぶと九州から兵を撤収した。かくして、北九州は大友宗麟が支配するところとなった。
 天正六年(1578)四月、大友宗麟は義統を大将に命じて日向土持氏討伐を行った。土持氏を支援する島津氏も薩摩を出陣したが、土持氏は大友氏の攻撃に敗れて滅亡した。一旦兵を引き揚げた大友軍は、十一月、日向を攻略するため出陣した。この出陣にはおおかたの家臣が反対をしたが、田原紹忍の賛成を得た宗麟は出兵に踏み切った。
 日向に進攻した大友軍は、佐伯宗天・田北鎮周(紹鉄の弟)を先鋒に日向高城を攻撃した。しかし、大友方諸将は総大将の田原紹忍の指揮に従わず、大友軍の戦意は低かった。決戦の前夜、死を覚悟した鎮周は軍議もそこそこに陣所に帰ると、伝来の鞍を割って酒を暖めると兵に振る舞った。十一月十二日の合戦当日、鎮周は先鋒右翼として二千五百の兵を率い、川を渡ると島津軍に突進、ついに一族らとともに戦死した。これが大友軍壊滅のもととなり、大友軍は大敗を喫した。

紹鉄の謀叛

 日向の敗戦により、大友宗麟の権勢は一気に失墜し、領国内の武士らに動揺が走った。さらに、田原一族の惣領である親宏が宗麟に反抗した。これは庶流の田原紹忍が宗麟の寵愛を受け、召し上げられた親宏の所領を与えられたことへの不満と、日向の敗北は紹忍にあるとみて居城に立て籠ったのである。宗麟は驚いたが、ほどなく親宏が急死したことで事件は落着した。しかし、親宏の子親貫が本格的な反乱を引き起こしたのである。
 翌七年、紹鉄は秋月種実討伐に出陣したが、秋月方の夜襲を受けて敗退、中津城に入った。このころ、紹鉄は親貫や秋月に通じ、謀反を企てているとか、巡察使バリヤーニ殺害を準備しているとかの讒言をされる。讒言者は田原紹忍であったようだ。この讒言を信じた宗麟・義統は、志賀親則・一万田鑑実らを将とする一万余の討伐軍を出陣させた。
 紹鉄勢はわずか百人ばかりの人数であったが、堅城と複雑な地形をもって討伐軍を寄せつけなかった。さらに寄手には紹鉄と懇意の者もを多く、一様に田原紹忍を嫌っていた。志賀親則らは紹鉄に筑前・筑後方面に落ち、時節を待てばどうかと説いたため、これを入れた紹忍は熊牟礼から落ちていった。しかし、四月、日田郡五馬庄松原村で財津・坂本らの日田郡衆に討ち取られた。
 ところで、七年十二月、鞍懸城を根拠とする田原親貫が大友氏に謀反を起こした。親貫は兵船をもって府内を衝こうとしたが、嵐のために果たせなかった。紹鉄が大友氏に対して兵を挙げたのはその直後のことで、親貫が府内に入り紹鉄の軍と連合していれば、大友宗麟の敗北は疑いのないところであったという。結果は、紹鉄も田原親貫も討たれて一連の争乱は終息した。
 乱後、大友義統は謀叛は紹鉄ひとりの企てであり、田北一門の罪は問わないとして、鎮周の婿養子統員に本領を安堵した。かくして、田北氏は統員が惣領となり、斜陽の大友氏を支えた。

田北氏のその後

 島津氏の攻勢が急になると、統員は栂牟礼城の在番となり、城主の佐伯惟定とともに島津軍の後方攪乱に活躍した。しかし、大友氏は次第に島津氏に圧迫され、ついに宗麟は豊臣秀吉を頼って島津征伐を願った。かくして秀吉は島津討伐の軍を起こし、天正十五年、秀吉軍に連戦連敗した島津軍は薩摩に逼塞し九州は秀吉政権下に組込まれた。
 九州平定後の国割りによって、大友氏は豊後一国を安堵され、統員は大友吉統に仕えて文禄の役にも出陣した。しかし、吉統が朝鮮の役における失態を秀吉に咎められて改易処分を受けると、統員は浪人して清成作平と改名した。その後、細川忠利に仕え、寛永九年(1632)肥後に移住し、子孫は熊本藩士として続いた。・2005年5月8日

参考資料:直入町史/九州戦国史/大分歴史事典 ほか】

●大友氏の家紋─考察


■参考略系図
・田北隆信本田北氏系図を底本に作成。

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