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竹田津氏
洲 浜
(大蔵氏流日田氏流)


 竹田津氏は、大蔵氏流日田氏の一族といい、国東郡国見の竹田津城に拠った。大蔵氏は、大和朝廷の官物を収めた蔵であるる大蔵に仕えた漢氏の子孫といい、のち大宰府の官人として九州に勢力をもった。嫡流の原田種直は平氏政権のもとで、九州支配の要として権勢を振るった。大蔵氏からは原田氏のほか、秋月・原田・天草氏らが分出して鎌倉幕府成立後も北九州各地に大蔵一族は繁衍した。弘安八年(1285)に幕府に提出した『豊後国図田帳』に竹田津領主竹田津惟永の名がある。
 文永十一年(1274)の蒙古襲来に際して、日田永基は一族・郎党を率いて出陣、筑前姪の浜、百道原で戦功をたてた。戦後、国東郡安岐郷に所領を与えられ、子の基宗が入部して弁分八郎を号した。基宗の子らはそれぞれ竹田津氏を名乗り竹田津氏の祖になった。一方、日田永宗の子浦部四郎永俊の子永国が竹田津石見守を名乗り、子孫は竹田津を称している。このように、竹田津氏は日田氏の庶流として各時代に発生したことが知られ、それぞれ系図は判然としないものの豊後に広まっていたことは疑いないことである。
 武家としての竹田津氏は、櫛来氏・伊美氏らとともに「浦部衆」と呼ばれた水軍の将であった。そして、戦国時代には大友氏に従い、大内・毛利氏らの水軍と戦ったことが知られる。
 南北朝時代になると大友氏の麾下に竹田津道景があらわれ、さらに、竹田津三郎詮之が登場する。三郎詮之ははじめ武家方に属していたが、のちに南朝方に転じ正平四年(貞和五年=1349)後村上天皇から綸旨を蒙っている。しかし、ほどなく武家方に転じ、ついで南朝方に転じるというように、その去就は定まらなかった。それは、竹田津氏に限ったことではなく、南北朝期における武家の一般的な行動であった。その後、三郎詮之の動向は不明となり、竹田津氏のことも遥として不明である。

動乱期の竹田津氏

 明徳三年(1392)、南北朝が合一され室町幕府体制が確立した。そして、十五世紀はじめの永享四年(1432)、日田郡司として西豊後に一勢力を構えていた日田永秀(永純)が死去した。幼い七郎丸が家督を継いで永包を称したが、叔父の永好が家督を狙って謀叛を起した。永包は永好を討ち取ったが、ほどなく永好の家臣に暗殺され大蔵姓日田氏は断絶という結果となった。この事態に際して、七郎丸の姉を室としていた大友永世(親満)が郡司職を継ぎ、日田氏は大友系として再生したのである。
 永世は男子に恵まれなかったため、大友親繁の子親武を養子に迎えて 日田郡司職を譲った。ところが、そのあとで、実子の永晴が生まれたため、永世は竹田津氏の名跡を継がせた。ここに、大友日田系竹田津氏が生まれたのである。永晴の子永親は田原親治の乱鎮定に活躍したが、永正十年(1513)故あって自殺したという。
 永親のあとを継いだ長重は大友義長から一字拝領したもので、義長・義鑑の二代に仕えた。天文三年(1534)、周防大内氏が陶興房・杉隆連を大将として豊前に進攻させた。対する大友義鑑は、十九歳の吉弘氏直を大将に命じ、寒田三河守を副将として兵を出した。勢場ケ原の戦いとよばれるもので、長重も出陣して大友氏の勝利に功がった。以後、竹田津氏は大友氏に属して、九州の戦乱に身を処した。
 やがて、薩摩・大隅を拠点とする島津氏の北進作戦が開始されると、大友氏は日向高城において決戦を行ったが、多くの宿将を失う壊滅的敗北を喫した。以後、大友氏の勢力は次第に凋落の色を深くし、ついには島津氏の攻勢を支えきれなくなった大友宗麟は豊臣秀吉に援助を乞うた。これがきっかけとなって秀吉の九州征伐が行われれ、敗れた島津氏は南九州に逼塞し、その後の国割りで大友義統(吉統)は豊後一国を安堵された。
 文禄元年(1592)、朝鮮の陣に出陣した大友義統に従って竹田津氏も竹田津より出航した。ところが、翌年正月、不手際により秀吉から勘当の朱印状を受け、大友氏は改易となった。浪人となった吉統は毛利輝元に預けられ、水戸の佐竹義宣に預けられたのである。

戦国時代の終焉

 やがて、慶長五年(1600)、関ヶ原の陣が起きると、大友氏再興を目論んだ吉統は西軍に属した。そして、毛利輝元の支援を受け、豊後の速見郡立石に来着し旧臣らに檄を飛ばした。長重の孫七郎統直は吉統の檄に応じ、別府石垣原で黒田軍と激突、乱戦のなかで戦死してしまった。統直の死後、あとをついだ子の永行は竹田津村の庄屋に任ぜられ後世に家系を伝えた。
 一方、江戸時代、肥後藩主として続いた細川氏の「分限帳」に竹田津氏が見え、「三つ雁・隅切角に面高」の家紋が記されている。

参考資料:西国武士団関係史料集;37/戦国人名事典 ほか】



■参考略系図
・永好は詮永の子とするのが定説だが、大蔵姓岐部系図の記述に従い、ここでは詮永の女子の婿に位置づけた。  


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