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田原氏
●抱き杏葉
●秀郷流大友氏庶流


 田原氏は志賀・詫摩氏と並ぶ大友三大支族(大友三家)の一つで、大友氏初代能直の庶子泰広が始祖である。泰広は京都で生まれ、豊後国国東地方に地頭職を得、国東郡田原別府に定住して田原氏を称した。のち沓掛田原・武蔵田原氏を分出し、さらに吉弘・如法寺・生石・田口氏などの庶流を生じた。

田原氏の歴史への登場

 二代基直は文永・弘安の役の戦功により、正応三年(1290)筑前恰土庄を恩賞として与えられた。基直のあとを継いだ直貞のとき、元弘の動乱に遭遇した。
 元弘三年(1333)、直貞は嫡男貞広とともに鎮西探題を攻撃し、探題北条英時を滅ぼす功をたてた。その功により、建武の新政が発足してのち、香地荘地頭職三分二、玖珠郡岩室村地頭職を恩賞として与えられるなどして、所領を拡大していった。一方、直貞の兄盛直は宇佐宮領田染荘侵入して違乱を働き、その子直平も乱妨を働くなど悪党化していったため、直貞の流れが田原氏の嫡流と認められるようになった。ちなみに、盛直の流れは沓掛田原氏として続いた。
 直貞と貞広父子ははじめ後醍醐天皇につくしていたが、建武二年(1335)、足利尊氏が新政に叛旗を翻すと尊氏に味方して活躍した。観応二年(1351)、貞広は国東郷地頭職を与えられ、同郷飯塚城に移住してのちの田原氏発展の基礎を築いたのである。
 やがて、九州の南北朝時代は征西宮懐良親王と征西宮を擁する菊池武光が勢力を伸張していった。文和二年(1353)、九州探題一色氏を中心とする武家方と征西宮を擁した菊池方との決戦が筑前針摺原で行われ、征西宮=菊池方の大勝利に終わった。この戦いに貞広は宗家大友氏時、島津氏久らとともに出陣し、先鋒となった大友勢の一翼をになったが、乱戦のなか安富泰重によって討ち取られてしまった。
 かくして探題一色氏は九州から逃れ去り、征西宮懐良親王と菊池武光らは太宰府を征圧した。勢いにのった征西府は、正平十四年には大保原の戦いで少弐氏に潰滅的打撃を与え、九州は征西府の勢力がおおいに振るった。正平十五年、斯波氏経が九州探題に任じられて征西府と対決したが、貞治元年(正平十七年=1362)、長者原の戦いに敗れた氏経は帰京した。
 孤立無縁となった田原氏能は、上洛して幕府に有力大将の九州下向を請うた。幕府は渋川義行を探題としたが、義行は結局九州にはいることができなかった。以後、九州探題は空席のままとなり、氏能が代理をつとめて征西府と対峙を続けた。

勢力の拡大

 応安三年(1370)に至って、幕府は今川了俊を九州探題に任じ、氏能は了俊と前後策を相談したようで、翌年、了俊の子義範とともに豊後に帰り高崎城に入った。了俊も門司を経て筑前に入り、大友親世・田原氏能・志賀氏房ら大友一族を糾合して頽勢の挽回を図った。了俊は九州諸勢力の懐柔につとめ、応安五年(1372)には太宰府を奪還し、着々と南朝方を圧倒していった。氏能は探題今川了俊に属して、菊池武光と連戦し北九州全域と周防に及ぶ広大な散在地を得た。こうして、田原氏は氏能の代に他氏がうらやむほどの全盛を誇り、大友宗家を凌ぐ勢いを示した。
 九州探題今川了俊は田原氏ら有力国人に忠勤を説き、恩賞を給与し、かれらを傘下におさめていった。さらに了俊は、把握した有力国人衆を幕府奉公衆に推薦するなどして、傘下の武士たちの心を巧みに取り結んだ。田原氏も戸次、佐伯、吉弘氏らとともに奉公衆に推薦された。しかし、田原氏らが幕府奉公衆として把握されることは、守護領国制を築き上げようとする大友宗家の思惑と対立することにもなった。やがて、大友氏と田原氏の間に抗争が生じるのは、ここに原因があった。
 了俊の卓抜した手腕によって、九州南朝方は劣勢に追い込まれていった。永和七年(1381)、今川勢は菊池城を陥落させ、九州南朝勢力を瓦壊させるに至った。そして、明徳二年(1391)、名和氏が拠る八代城を攻略、ここに九州南朝方の抵抗はまったく止んだ。
 翌明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり半世紀以上にわたった南北朝の争乱に終止符が打たれた。つづいて、九州探題として辣腕を振るった今川了俊も探題職を解かれ、京に召還された。了俊の失脚の背景には、守護として領国の一円支配を企図する大友親世、大内義弘らの讒言があったといわれている。
 田原氏能は了俊と結び幕府奉公衆として大友宗家と対立していたが、その姿勢は了俊が帰京したのちも変わらなかった。氏能のあとは嫡男の親貞が継ぎ、飯塚城主となった。また、庶子の親昌は武蔵田原氏の祖となった。

大友宗家との対立

 南北朝の争乱こそ終息したが、応永の乱(1399)、永享の乱(1438)、嘉吉の乱(1441)、享徳の乱(1454)など日本各地において争乱が続発した。そして、応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が勃発し、世の中は下剋上が横行する戦国時代へと移行していった。その間、大友氏では家督をめぐる内訌が続き、応仁の乱後の明応年間(1492〜1501)には、政親と親豊(義右)父子が対立、抗争していた。
 大友政親・義右父子の対立の裏には、大友一族の大聖院宗心の陰謀と宗心を支援して大友氏の凋落を目論む大内氏の存在があった。宗心は大友親綱の六男で政親とは従兄弟の関係にあり、親綱の菩提寺である大聖院に入れられた。しかし、宗心は大友宗家の家督を望んでさまざまな謀略を尽くしたのであった。
 大友宗家の内訌に際して、田原親宗は政親に心を寄せていたようだが、大内氏と宗心からの働きかけによって政親に反するようになった。そして、親宗は政親の成敗を受けて国東に引き籠ったようだ。明応三年(1494)、親宗は手兵を率いて府内大友館に伺候した。これに対して親宗を警戒していた政親はこれを拒否したため、親宗はふたたび国東に帰っていったが、政親からの追討命令を受けた木付氏、富来氏らと御野崎で戦い討死した。
 政親・義右父子の対立は、明応五年(1496)、政親が義右を毒殺し、みずからは筑前に逃亡しようとしたところを赤間関で大内氏に捕えられ自害させられたことであっけない終結をみせた。義右の毒殺、政親の謀殺には、いずれも宗心が関わっていたという。
 大友宗家の家督は政親の弟親治が継ぎ、政親は大聖院宗心の暗躍を抑えるため、前将軍足利義材に使者を派遣して、嫡男義長の大友家家督を認めさせようとした。ところが、義材を擁する大内義興は、義長の家督に猛然と反対し、大聖院宗心を大友の家督後継者に推した。その後、大内義興は義材を奉じて上洛し、義材(義稙)を将軍に返り咲かせた。義材は親治・義長父子に大内義興との和睦を勧めたが、応じなかったため豊前攻略が開始された。
 大聖院宗心は大内氏以外にも、肥前の大村氏、肥後の相良氏とも通じて、大友宗家との対立を続けた。親宗のあとを継いだ親述(ちかのぶ)は、妻の実家佐伯氏、義兄弟にあたる朽網親満らと結んで大聖院宗心を支持して大友氏と対立した。永正十三年(1516)、宗心を盟主として朽網親満の乱を企てたのも親述であり、常に大友氏をおびやかす存在であった。
 やがて、宗心も老境に入り、家督への執念も消えていったようで、その消息は途絶えることになる。一方、田原親述(ちかのぶ)は、永正十五年(1518)の大友義長の「条々事書」に、「 田原親述兄弟三人之事、子々孫々及も許容有間敷候」と記されている。大友義長にとって、親述は不倶戴天の存在であったことがうかがわれる。

MEMO
………
『安岐町史』によれば、田原親述が大聖院宗心に加担して大友親治と対立したのは、実は田原氏内部における 田原親治と田原親述の家督争いであったとある。田原親治は親憲の子で、本来なら田原氏の嫡流たる人物であった。 ところが、田原氏の家督は親憲の弟氏忠の系に移ったため、田原親治は家督を奪還するため田原親述と争った。そして、 親述は大友宗家を利用して、田原親治を没落させたのだというのである。しかし、この説は当時の諸記録などから うなづけないものであり、親述は大聖院宗心を擁して田原氏の実権を掌握しようとしたものであろう。ひょっとすれば、 大友一族の大身である田原氏にすれば、大友氏に取って代わろうとしたのかも知れない。


大友氏の重臣に列す

 その後、田原親述は大永二年(1522)、義長のあとを継いで豊後・筑後両国守護職となった親安(のち義鑑)から筑後国守護代に任じられており、大友氏家中において一定の勢力を維持していた。親述のあとは親薫が継ぎ、天文三年(1534)、大内勢が豊後に侵入したときには、姫島付近の警固にあたった。親述の代、田原氏は大友氏の忠実な被官となり、周防の大内氏への備えを担っていたようだ。  親薫のあとは弟の親宏が継承し、天文三年に大内義隆が豊後に侵入したとき、親宏は義鑑に命じられて出陣して奮戦、感状を受けた。大友氏と大内氏は、北九州を舞台に抗争を繰り返したが、天文十九年(1550)、大友義鑑が「二階崩れの変」で横死したことで、義鎮(のち宗麟)が大友氏の家督を継承した。翌二十年には、大内義隆が陶晴賢の謀叛で討たれたことで情勢が大きく変わった。さらに、弘治元年(1555)には、毛利元就が陶晴賢を討って、中国の大勢力に台頭してきた。  弘治三年、大内義長(義鎮の弟)を討ち取った毛利氏は、筑前・豊前の攻略作戦を開始した。筑前の秋月文種・筑紫惟門らは毛利氏に通じ、大友氏から離反した。これに対して大友義鎮は田原親賢を豊前探題とし、親宏は国東郡の士卒四千を率いて、山田城を攻略、ついで馬岳城を落し、戸次鑑連・田北鑑重・志賀親度らとともに秋月氏の本拠である古処山を攻め、文種を敗死させた。
 永禄元年(1568)より、親宏は吉弘鑑理・戸次鑑連とともに筑前・豊前の討伐を行い、翌年、門司城を攻略して豊前を平定した。しかし、間もなく門司城は毛利軍に奪還され、親宏はふたたび門司城攻撃に参加したが、毛利軍の反撃に敗れ多くの家臣を失い、ようやく退却している。やがて、永禄四年には加判衆に列し、大友領国の政治にあたるなど義鎮から厚い信頼を受けた。
 しかし、田原氏本家は伝統的に反大友的傾向が強く、義鎮もこれを警戒して、永禄八年には一族の武蔵田原親賢が加判衆にあげられた。これは、家中の一大勢力である田原本家を抑圧し、田原氏の勢力分裂を図るものでもあった。
 大友氏は義鎮(宗麟)の代に、最大版図を支配するに至った。天正五年(1578)、島津氏に敗れた日向の伊東義祐が宗麟を頼ってきた。翌年、義祐の要請をいれて宗麟は日向に出陣したが、日向高城、耳川の戦いで島津氏に壊滅的敗北を喫した。以後、大友氏は衰退の一途をたどることになる。

田原宗家の没落とその後

 田原親宏は大友氏の豊前対策、毛利氏勢力への防衛などの任をもって、鞍掛城の城番をつとめ、よくその重責を果たしていた。ところが、親宏に対する大友氏の処遇は冷たいものであったようだ。そして、天正六年の暮れ、臼杵に出陣していた親宏は、突然、国東に帰郷したことで謀叛の疑いを被った。
 この事件の背景には、田原氏の勢力削減を目論む大友氏の思惑があり、それに対して田原氏の不満があった。親宏の行動の直接の引き鉄となったのは、宗麟が親宏の領地を親賢に与えようとしたことにあったといわれる。しかし、豊前方面の情勢が悪化すると、親宏は豊前方面に出陣してその征圧につとめた。この親弘の働きに対して加判衆は旧領回復を進言し裁許され、親宏は領地を回復することができた。これによって、事件は沈静化したが、親宏は翌天正七年に病死した。それは悶死であったとも伝えられている
 親宏は男子がなかったため、豊前長野氏から親貫を婿養子に迎えていた。親宏の死後、親貫は宗麟の二男親家を田原宗家に迎える密約が親宏と宗麟の間に交わされていたことを知り、毛利の援助を取りつけて謀反を起こした。親貫は軍船を率いて、 府内攻撃を企図したが、嵐のために果たせなかった。その直後、田北紹鉄が謀反を起こしたため、親貫の攻撃が成功していたら大友氏も危なかったと噂された。
 大友氏は親貫の懐柔をはかったが、親貫は鞍懸・安岐の両城に籠って抗戦姿勢を崩さなかった。宗麟は義統を速見郡へ出動させ、親家を雄渡牟礼城に置き、みずからは日出荘辻間村に出陣、安岐城攻撃を開始した。親貫は毛利氏に救援を求めたが、毛利氏の援軍は大友軍によって迎撃されたうえに、おりからの嵐によって上陸できなかった。一方、豊前の城井氏、一族の長野氏らが救援に向かったが、いずれも大友軍に撃退された。
 ついに万事窮した鞍懸城は大友軍の総攻撃によって陥落、親貫は城を枕に討死したという。しかし、その最期については諸説があり一定しないが、その後、親貫のことが伝わらないことから落城のときに自害したものと思われる。親貫のをもって田原氏の嫡流は断絶し、宗麟の子親家が田原氏を号することになった。親家は文禄二年(1593)、大友家改易にあたり立花宗茂に預けられ、慶長十四年(1609)豊前細川家に招かれて家臣となり、子孫は熊本藩士として明治維新に至った。・2005年03月19日

  
●武蔵田原氏

宗麟の寵臣、親賢

 他方、田原氏では武蔵田原氏の親賢(紹忍)の活躍が知られる。親賢は奈多氏から出て、武蔵田原親邦の養嗣子となった。妹が義鎮の妻であった関係から、義鎮・義統父子の信頼を得て権力を振るった。永禄期、大友氏の豊前平定戦に従軍して、宗家の親宏、戸次鑑連らとともに活躍した。永禄八年には加判衆に列して、宗麟から政治の大部分を委任されるまでになった。
 このような親賢の出頭ぶりに対して、大友氏への忠誠心が篤く清廉の武将であった戸次鑑連は親賢に対する宗麟の法外な扱いを檄文をもって指摘している。しかし、戸次鑑連・吉岡宗歓・臼杵鑑速・吉弘鑑理ら大友氏重臣の死去や担当替などによって、親賢の権勢はさらに強化されていった。そして天正六年(1578)、家中の反対を退けて大友氏の日向遠征軍を指揮し、耳川で島津軍に大敗、大友氏の衰運を招いた。帰還した親賢は敗戦の責任を追求され、妙見岳に蟄居した。
 その後、本家田原氏の反乱を抑え、ふたたび国政にあたった。九州統一を進める島津氏の大友侵攻に際しては、常に義統と行動をともにして頽勢挽回を図った。天正十六年、豊臣秀吉の九州征伐に島津氏が屈したことで大友氏は愁眉を開き、九州仕置後に豊後一国を安堵された。
 天下統一を実現した秀吉は朝鮮出兵を計画、大友吉統にも出陣命令が下った。吉統は朝鮮に渡海したが、卑怯な振舞いがあったとして、領地没収の処分を受けた。吉統の改易後、親賢は秀吉から三千石を与えられ、中川秀政の与力となった。慶長五年(1600)、関ヶ原の役において旧領回復を企図して西軍に参加した義統に合流、黒田如水と石垣原で戦ったが敗れて降伏した。その後、中川軍に加わって臼杵城攻めに加わり、太田方の反撃を受けて討死した。

武蔵田原氏のその後

 親賢は男子がなかったため、京の公卿柳原氏から親虎を迎えて養嗣子としていた。ところが、親虎は臼杵の教会で受洗、ドンシマンと称した。これを知った親賢は棄教を迫ったが、宗麟は親虎の入信に賛意を表明、義統も親虎追放には賛成しなかった。ついに、親賢は親虎を廃嫡して家から追い、宗麟の子親盛を養子に迎えた。親虎は府内のイエズス会住院に隠れていたが、日向出陣に際して親賢とともに出陣、敵の重囲に陥り戦死したと伝えられる。一説には、死地を脱し豊後国を逃れて堺に赴き、のち伊予国に移り住んで生涯を終えたともいう。
 もうひとりの養子親盛は、慶長十一年(1606)豊前細川家に千石で召し出され、松野親盛を称して子孫は熊本藩士となった。・2005年03月19日

参考資料:国東町史/豊後高田市誌/安岐町史 ほか 】

●大友氏の家紋─考察


■参考略系図

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