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多賀谷氏
木瓜に一文字
(桓武平氏野与党)


 武蔵国騎西庄多賀谷郷を発祥地とし、武蔵七党のうち桓武平氏流野与党の有賀頼基の二男光基を祖とする。そして、その初代は多賀谷左衛門尉家政といったと伝える。一方、「多賀谷系図」をみると武蔵七党ではあるが桓武平氏良文流村山氏の流れであり、畠山氏・河越氏らと同族である。すなわち、村山三郎重遠の子に有名な金子十郎家忠がおり、その二子が家政で「号多賀谷左衛門尉」と注記してある。
 いずれが、正しいのかは不詳としかいえないが、多賀谷氏が左衛門尉家政なる人物を祖としていたことは共通している。

多賀谷氏の登場

 南北朝の初めに下総の結城直光が武蔵国足立・埼玉郡で所領を与えられ、やがて多賀谷氏は結城氏の家人となった。系図によれば、多賀谷政朝は女に結城満広の子満義(光義)を婿に迎え、満義が多賀谷氏を継承し、二人の間に生まれたのが氏家で、のちに満義は結城へ帰ったとしている。満義はその後、結城合戦で戦死した。
 永享十二年(1440)、彦四郎氏家のとき「結城合戦」が起こった。この乱は、「上杉禅秀の乱」以来、打ち続く関東の戦乱の線上に起こった合戦であった。禅秀の乱とは関東公方足利持氏に上杉禅秀が反乱を企てたものであり、乱を制圧した持氏は禅秀に加担した北関東・東関東の諸豪族を征伐した。しかし、これら諸豪族には「京都御扶持衆」が多かったことから、持氏の姿勢はそのまま反幕府的行動につながっていった。このような持氏の行動を支援していた管領上杉憲実は、やがて反持氏の姿勢をとるようになり、ついに両者が対立した。これに、持氏に対して警戒を強めていた幕府が介入し、幕府は持氏討伐軍を発して憲実を応援した。結果は、持氏が敗れ子の義久とともに自害させられ、鎌倉公方家は滅亡した。これが、世にいわれる「永享の乱」である。
 このとき、持氏の遺児安王丸と春王丸・永寿王丸らは下野日光に落ちのびた。翌年、安王丸・春王丸は下総の結城氏朝を頼って兵を挙げた。「結城合戦」である。安王丸・春王丸を擁した結城氏朝らは結城城に立て籠って、一年余り抵抗を続けたが幕府軍の攻撃の前に敗れ結城城は落城した。多賀谷氏もこの合戦に結城方として参戦していたが、落城寸前の結城城から結城氏朝の末子成朝を抱いて脱出。佐竹氏を頼って落ちのび、のちに結城家の再興に尽力した。
 『結城軍物語』には「たかや一ぞく」の壮烈な戦死が描かれ、『鎌倉大草紙』には「結城氏朝が息男重朝は、父討死のとき三歳にて、家臣多賀谷彦次郎懐中に懐て、常陸の佐竹に落行隠れたりけるが、時をえて打ていで結城へ帰り、普代の下人を催し、近郷をことごとくうちしたがへ、かまくらへ参りければ、成氏大によろこび、則成朝と改名して近習に被召仕けり」と、多賀谷彦次郎による氏朝の遺児成朝の脱出と、結城氏の再興が伝えられている。このように、結城合戦における多賀谷氏の活躍は大きかった。
 しかし、この時期の多賀谷氏については不明な点が多いのである。このことは、それだけ結城合戦にかかわる政治的影響が大きかった結果と思われる。そして、多賀谷一族は、このような激動の歴史のなかで犠牲をはらいながら、次第に名を顕わしていくのである。

関東の大乱

 その後、永寿王丸が赦されて関東公方家が再興、永寿王丸は成氏と名乗った。多賀谷氏は結城氏に属しながら、古河公方足利成氏にも臣従していた。
 享徳三年(1454)の享徳の大乱では、古河公方成氏の命で関東管領上杉憲忠を急襲し憲忠の首級をあげている。その賞として、下妻庄内に三十三郷を与えられ、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。『鎌倉大草紙』には「憲忠の首をば結城成朝家人金子祥永・祥賀討ち取りて御所へ参」って、成氏は首実検の後、「金子に多賀谷という名字と多賀谷の紋(瓜に一文字)を下された」と記している。この記事をみる限り、この時代の多賀谷氏は金子も名乗っていたようである。
 この時期、多賀谷氏の当主として史料上に名前を見せるのは朝経である。朝経の名乗りはおそらく結城成朝から偏諱を受けたものだろう。それ以前は高経を名乗っていたようで、享徳の乱の功によって一字を与えられ朝経を名乗ったと考えられる。朝経は結城氏の家臣として重要な位置をしめ、相当の政治的指導力を発揮していたようで、多賀谷氏は着実に勢力を築いていたことが知られる。
 寛正三年(1462)多賀谷祥英が結城成朝を殺害したという。この大事件は、多賀谷氏関係の史料には全くみえない。それは事実の隠蔽ということもありえるが、むしろ多賀谷氏側としては自らの立場を弁護する記述を残すのが自然であり、その人物を祥英=朝経として、多賀谷氏の当主であればなおさらのことである。成朝殺害のことについては、検討されるべきことが多いといえそうだ。
 とはいえ、成朝が殺害されたことは紛れもない事実である。成朝は山川氏から入って結城家督を継承した人物であった。このことから、結城家中は氏朝系家臣と、山川=成朝方家臣とが対立していて、それが成朝殺害という事件を生んだものと思われる。成朝死後の結城家督は氏広が継いだ。氏広は長朝の子で氏朝系の人物であった。
 その後、朝経は文正元年(1466)、古河公方成氏による上杉房顕討伐への従軍をはじめ各地に転戦し、多賀谷氏の基礎を固めていった。朝経がいつ没したかは明らかではないが、結城氏の再興とその発展に尽力した生涯であったといえよう。

多賀谷氏の発展

 朝経のあとを継いだのは、『多賀谷家譜』によれば家稙である。ところが、この時期に多賀谷氏の当主と考えられる人物として「下総守基泰」がいた。家稙は法名を祥潜といい、一方の基泰は祥潜と同一人物と考えられていることから、家稙と基泰とは同一人物であったと結論づけられよう。家稙は『大宝八幡縁起』によれば、康正元年(1455)下妻に入り、飯沼氏一族の堀戸氏を滅ぼし関城に入ったとある。その後、大宝沼の南にある関城に替わり、下妻城を築きこれを本城とした。下妻城は別名「浮島城」とも呼ばれ、沼のなかの島と島をつなぐ要害堅固な水城であった。以後、家稙は下妻城を拠点に、結城氏に属しながら独自の版図を作り上げていくのである。
 ところで、先述のように結城成朝のあとは長朝の子氏広が継いだ。氏広は文明十三年(1481)に死去し、子の政朝がわずか三歳で結城氏家督を継いだのである。この政朝に仕えたのが家稙の甥にあたる多賀谷和泉守(実名不詳)で、和泉守は結城家中における主導権を握ろうとし幼い政朝を主とも思わなかった。和泉守は結城氏における下剋上の人物で、結城城の西館を本拠として権勢を振るい、結城氏の家臣たちに睨みをきかして結城城の城主のように振舞ったという。
 このような和泉守の横暴に対して家稙は、小田氏と結んで結城領に侵入したが、結城政朝の出陣によって小田・多賀谷勢は五百余の兵を討たれる敗戦を被った。政朝は和泉守の横暴を憎んでいても、家稙の結城領侵入は排除したのである。とはいえ、和泉守の横暴はますます増大したため、ついに政朝は家稙と結んで和泉守を討つことに決したのであった。
 『結城家之記』によれば、政朝と家稙による和泉守討伐は明応八年(1499)八月のことで、和泉守に味方した結城氏の家臣たちも討たれ、この和泉守討伐を契機として結城政朝は家中の矛盾を克服することに成功したのである。和泉守の滅亡は「天罰」と評されているが、下剋上は戦国時代における一つの社会現象であり、決して珍しいことではなかった。結城氏はこの下剋上を克服したことで、より強化された領主権を確立し、戦国大名に飛躍することができたのである。
 多賀谷氏は家稙の時代の十五世紀後半から十六世紀にかけて大きく発展をしたが、その時期は関東の大乱時代でもあった。古河公方と関東管領との争い、古河公方と幕府の対立、ついで上杉氏の内部抗争と争乱が連続し関東の政治的混乱は止むことがなかった。そして、古河公方家でも公方足利政氏とその子高基の間い対立が起こった。この公方家の内紛によって、それまで同盟関係にあった結城氏と多賀谷氏が袂を分かつことになった。
 結城政朝は、小田・宇都宮氏らとともに高基方に、多賀谷家稙は小山・佐竹・岩城氏らと政氏方に属したのである。公方家の抗争は最終的に高基側の勝利に終わり、一貫して政氏を援助してきた多賀谷氏は敗北を喫した。しかし、この公方家の内紛における家稙の動向は関東の政治情勢のなかで、多賀谷氏がその影響を直接受けるほどに成長していたことを示したものといえよう。

結城氏からの自立を目指す

 関東の政治的混乱は、これまで関東の政治的頂点にあった古河公方足利氏、関東管領上杉氏の力を急速に失墜させていった。この機をとらえて頭角をあらわしてきたのが北条早雲であり、その子氏綱であった。以後、関東の政治史は後北条氏を軸として、古河公方・上杉氏、そしてそれをとりまく諸大名・国人領主の動向に彩られていくことになる。いいかえれば、中世的秩序が崩壊し、戦国の様相をさらに濃くしたのである。
 家稙のあとは家重が継いだというが家重は系図にしか見えない名で、この時期に多賀谷氏が発給する文書の署名は光経となっている。おそらく、家重と光経は同一人物であったろう。天文三年(1534)結城政朝は多賀谷領へ侵攻したが、大方原の戦いで多賀谷氏は結城勢を撃退した。これにより、多賀谷氏は結城氏とは真っ向から敵対関係となった
。  光経のあとを継いだ朝経(系図では重政に該当)の代になると、多賀谷氏は小田政治と結んで主家にあたる結城氏と対立、下妻で戦国大名としての自立をめざした。天文十六年(1547)五月、小田氏と結んだ朝経は結城攻撃を図ったが、結城政勝の逆襲を受け、両軍は関郡一帯で激突したが多賀谷勢は敗北した。
 これにより、結城氏からの自立をめざしていた多賀谷氏の立場は苦しいものとなり、結局、結城氏に対して和議を申し入れ旧来の同盟関係の復活をはかった。多賀谷氏は一歩後退という形をとったのである。一方、小田氏攻勢の機会をねらう常陸の佐竹氏が、朝経に誼を通じてきた。朝経はこれに応えて小田領へ侵攻し、今鹿島・長高野・前野などを占領した。
 ところで話は前後するが、天文年間、小田原北条氏が北侵を開始し、下総・上総方面へも勢力を伸長させていた。天文七年(1538)、小弓御所義明と里見義堯の連合軍を下総国国府台に破った後北条氏は、古河公方に娘を嫁がせて公方家一族の立場を獲得、関東領国化を達成しようと大きく前進してきた。さらに、北条氏康は古河公方足利晴氏を強引に引退させ、後北条氏の血を引く義氏を公方に擁立した。ここに、後北条氏は関東の諸領主に対して圧倒的な政治的優位をもって臨むようになったのである。

激変を続ける関東の戦乱

 天文十九年、朝経が重病になったことで政経が家督を継承した。それから間もない天文二十一年、北条氏康は古河公方足利晴氏を強引に引退させ、後北条氏の血を引く義氏を公方に擁立した。ここに、北条氏康は関東管領を称するようになり、関東の諸領主に対して圧倒的な政治的優位をもって臨むようになった。
 この情勢の変化に対して、多賀谷政経は結城政勝とともに後北条氏と協調することで、周辺地域への勢力拡大をはかっていった。たとえば、弘治二年(1556)四月、結城・多賀谷勢は後北条氏の援軍を受けて小田氏治領へ侵攻し、海老島・山王堂などの城を攻略している。
 ところが、永禄三年(1560)さらに別の政治的事件が起こった。すなわち、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)の関東遠征である。景虎は庇護していた関東管領上杉憲政を擁して越山し、たちまち北関東を席巻すると翌年には小田原城を攻め、ついで憲政から関東管領職と上杉の名字を譲り受けた。関東管領となった謙信は、北条氏康が擁する足利義氏に対して、足利晴氏の嫡子藤氏を古河公方に擁立して関東の政治秩序の回復に臨んだのである。この一連の流れのなかで、多賀谷政経は後北条氏を離れて上杉謙信の陣容に加わり、佐竹・宇都宮・小田氏らとともに結城晴朝を攻撃した。以後、政経は佐竹氏との同盟関係を強めていき、後北条氏に転じた小田氏治とも戦った。
 ところで、関東に出兵した景虎(謙信)は、関東諸将が用いる幕紋を記録した『関東幕注文』を作成した。関東幕注文は、戦国時代における関東諸豪族二百数十家の家紋を知ることができる貴重な史料となっているが、そのなかの「常陸之国」の衆に、多賀谷修理亮が「一文字ニ瓜之文」と見えている。結城氏は関東幕注文に見えないことから、当時、多賀谷氏が自立した勢力として謙信方に参じていたことが知られる。
 こうして多賀谷氏は、当面の敵である結城氏や小田氏と対決しつつ、その領域への支配拡大をめざしたのである。とはいえ、政経までの多賀谷氏は近隣の諸領主との対立・連合を繰り返し、結城氏から自立しうる実力をもちながら、なお結城氏の「洞中」から完全に離脱しえなかった。そのような状況にあって、関東の雄後北条氏の領国拡大や上杉氏の関東出陣は、多賀谷氏を含めた関東の諸領主に対して大きな政治的決断を迫ったのである。

多賀谷重経の活躍

 天正四年(1576)、多賀谷政経が死去し、その子重経が多賀谷氏の家督を継いだ。政経は上杉謙信の後楯を得て自立の道を歩み、さらに佐竹義重との結び付きを強め、小田氏治と戦い小田領を浸食していった。しかし、次第に後北条氏の攻勢が強くなり、下妻地方にも後北条氏の勢力が押し寄せてきた。重経が家督を継いだのはこのような時期であった。
 父政経の代に、岡見氏の拠る谷田部城を攻略し、多賀谷氏の支城として南進の前線拠点としていた。これに対し、岡見氏は牛久城を拠点に後北条氏との関係を強め、多賀谷氏に対抗していた。多賀谷領の南側に勢力をもつ岡見・土岐・菅谷氏らは、小田氏との関係が深い領主たちであったが、小田氏没落により自立し佐竹氏・多賀谷氏の圧力をうけるなかで後北条氏の配下に属する道を選んだのである。結果、常陸南部に勢力伸長を図る重経と、諸領主を支援する後北条氏とは直接対峙し激しく戦うことになった。
 天正五年、北条氏直は小田城を攻撃し、多賀谷氏来襲の防御戦を指揮した。天正八年には、北条氏照が土岐・岡見連合軍とともに谷田部城を攻撃し城を落した。しかし、重経はすぐさま逆襲し、城を奪還している。この時期、多賀谷氏の最前線ともいえる谷田部城をめぐって激しい攻防が繰り返された。その一方で重経は結城領を攻め取り、関郡の大半を支配下に治めた。さらに天正八年には娘を佐竹義宣に嫁がすなど、重経は確実に支配領域を拡大するとともに佐竹氏との関係を深めていった。
 本来多賀谷氏の主家にあたる結城氏は後北条氏に与して多賀谷氏とは立場を異にしていた。しかし、元亀年間にはいると、結城氏は次第に謙信への傾斜を強め、ついに元亀三年(1572)北条氏政と手を切り謙信に属するようになった。これにより、多賀谷氏はふたたび結城氏との協調関係を取り戻した。
 結城氏の離反に対して後北条氏は、天正五年(1577)五月、結城氏攻撃の軍を発した。このとき、重経は水谷政村・勝俊兄弟とともに、結城氏を援護した。さらにこの戦いでは、佐竹義重・宇都宮国綱・那須資胤らも参陣し、後北条氏の大軍と激しい戦闘を繰り返した。上杉氏の援軍はなかったものの、多賀谷・結城・水谷氏や佐竹・宇都宮・那須氏らの結束により、後北条氏の侵攻をよく阻止した。以後、後北条氏を共通の敵とするこの体制は、天正十八年の「小田原の陣」まで変わることはなかった。

戦国時代の終焉

  重経が家督を継ぎ、後北条氏に対抗して支配領域を拡大させていく時期は、中央では織田信長が全国統一を成し遂げようとする時期にあたっていた。重経は中央の政局にも目を向け、天正七年には織田信長に駿馬を送るなどして、信長への接近を図っている。しかし、天正十年(1582)信長は本能寺の変で横死した。天下統一の事業は明智光秀を討ち、ついで柴田勝家を倒した羽柴秀吉が継承する形になった。重経は秀吉にも書状を送って親交を通じ、中央政局を視野に入れながら多賀谷氏の生き残る道を模索していた。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉は小田原北条氏を征伐するため大軍を率いて京都を出発し、四月、小田原城を包囲した。重経は結城晴朝、水谷勝俊らと小田原に参陣して、秀吉に拝謁した。七月、小田原城は開城して北条氏は滅亡した。ここに関東の戦乱は終結し、豊臣秀吉を頂点とする新たな時代が始まったのである。
 秀吉は北条氏領国を制圧すると、ただちに「奥州仕置」に向かった。そして、八月、関東の諸領主に対する知行割が行われた。多賀谷氏もこのとき、知行安堵を受け下妻を安堵された。その高は六万石に相当するものであったという。こうして、所領を安堵されたものの秀吉から結城氏の配下に属することを命じられた。
 多賀谷氏はなかば独立した領主として存在していたが、古くからの関係で結城氏を主家とし、また佐竹氏の麾下にも立つという両属関係にあり、きわめて不明確な立場にあった。秀吉はこのような多賀谷氏の存在に明確な判断を下したのであった。ところが、このころ多賀谷氏は分裂しようとしていた。
 重経の長男は三経であったが、佐竹氏から宣家を養子として迎えたことで、三経は下妻を出て太田城を築いてそこを本拠とした。重経の家督は宣家が継承し下妻多賀谷氏の当主となった。そして、三経は結城晴朝の与力となり、宣家は佐竹氏の与力となった。ここに、多賀谷氏は二系統に分裂したのである。その後、多賀谷重経は、秀吉の「文禄の役」に際して名護屋へ出仕しなかったため、秀吉から叱責を受けている。以後、重経は政治の表舞台には立っていない。
 慶長三年(1598)豊臣秀吉が死去し、中央政界はふたたび転換期を迎えた。それは、徳川家康と石田三成の対立となり、慶長五年の関ヶ原の合戦へと連鎖していった。

多賀谷氏の変転

 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に際して、下妻・太田の両多賀谷氏もその去従を迫られた。太田の多賀谷三経は結城秀康の陣代として、下野国大田原に出陣した。三経は、上杉景勝の南下を抑える重要な役割を担う秀康に従って最前線に配置されたのである。一方、下妻多賀谷宣家は佐竹義宣に従った。下妻多賀谷氏が佐竹氏に属したことは、その与力という関係から止むをえないことではあった。しかし、結果として、佐竹との関係を通して石田・上杉方に与することになった。
 関ヶ原の合戦は徳川氏の勝利に終わり、戦後、多賀谷三経は結城秀康の家臣として位置付けられ、三万石を宛行われた。以後、三経は秀康の重臣として、秀康の越前転封に従った。のち、分家の上野前橋藩主松平氏の家臣となって存続した。これに対し、多賀谷宣家は佐竹義宣の家臣に位置付けられ、佐竹氏とともに出羽への転封を命じられた。出羽に入部した宣家は、慶長十六年檜山領一万石に配置された。こうして、多賀谷氏は二系統ともに先祖伝来の地である下妻を離れていった。
 通説では、多賀谷氏は所領を没収されたとされるが、二系統に分かれた多賀谷氏は、紆余曲折があったもののそれぞれ家を守った。おそらく、多賀谷氏が結城・佐竹氏の家臣となって下妻の地を離れたことから、所領没収、あるいは改易という説が生まれたのであろう。
 ところで、重経は宣家と行動をともにせず、こののち各地を放浪した。重経は旧知の人々の間を経巡って、銭や食べ物を貰いながら辛うじて生きていた。それは、まさに乞食の姿に等しく、かつて常陸南部に勇名を高からしめた戦国武将の姿とは、あまりにかけ離れた哀れな姿であったという。そして、末子茂光が仕官した井伊家の領地彦根に住し、ようやく安住の地をえて、元和四年(1618)波乱に富んだ生涯を終えた。享年六十一歳であったと伝える。

参考資料:下妻市史/栃木県歴史人物事典 ほか】



■参考略系図
 


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