新庄氏
巴/左藤巴/葉菱
(藤原北家秀郷流)

 藤原秀郷流季俊の後裔俊名がはじめて近江国新庄に住し、これにより新庄氏を称したという。俊名は足利二代将軍義詮に仕えた。その父遠俊も足利尊氏に仕えて戦功を顕わしたという。
 以後、歴代足利幕府に仕えるが、直寛は、十二代将軍義晴の命により近江国伊吹山の麓に出陣し、菱の浮葉を賜っている。これが、新庄氏の家紋「葉菱」の由来であるが、直寛は天文七年(1538)同地で討死した。翌年、直寛のあとを継いだ直昌は、坂田郡朝妻に築城。この地は幕府の御料所であったが、江北浅井氏、江南六角氏の両勢力の境界にあたり、しばしば合戦が繰り返された所でもあった。天文十八年、三好長慶が挙兵した時、直昌は管領細川晴元に与して摂津国にいたって軍功を挙げたものの「江口の合戦」において討死した。

 
新庄氏の居城、朝妻城址を訪ねる


戦国期に新庄氏が拠ったという朝妻城址に比定される中島神社、琵琶湖からすぐの所にあり、新庄氏も利用したであろう朝妻湊の跡があった。中島神社の北方すぐにある朝妻神社、周辺をあるくと古い宝凾印塔があり、さらに空壕、土塁とみられる地形が目をひく。可能性として、中島城から朝妻城にかけてまでの地が朝妻城の城域であったように思われる。

●近世へ生き残る

 直昌の嫡子直頼は、秀吉に仕えて馬廻となり、天正のはじめ、命により秀吉領の摂津国山崎城に移り住じた。同十一年の「賤ケ岳の合戦」には近江国坂本城を守備、翌十二年、嫡子直定とともに近江国大津城を賜った。
 文禄三年(1594)に大和国宇陀城、四年には摂津国高槻城に移った。当時の直頼は秀吉のおとぎ衆であったが、慶長三年(1598)に秀吉が没すると、秀頼に仕えた。その後、洛中洛外が穏やかならざるとき、加藤清正・浅野幸長らとともに夜ごと伏見向島にあった家康の館を警固した。しかるに同五年、石田三成の挙兵に上方の諸大名が三成の下知に従うなかにあって直頼独り背きがたく、伊賀国上野城に筒井定次を攻めて同城に立て籠った。
 関ヶ原の合戦後、家康が蒲生秀行にいわく
「直頼父子すでに賊徒に与すといえども、旧交を忘るべきにあらず。蒲生と新庄とはその先同国の因あれば、会津に相具して居住せしめよ」と。
 同国の因とは、新庄氏が近江国の坂田郡、蒲生氏が蒲生郡に起こったことをさす。以後、直頼は会津の蒲生秀行の預かりとなり、四年後の慶長九年駿府にあった家康に謁え、また江戸に赴いて秀忠に謁え、常陸国・下野国の内において三万三百石余を賜り、行方郡麻生を居所とした。
 新庄氏の家紋はもと「巴紋」であったが、「藤巴」にデフォルメされたものであるという。

■参考略系図